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日蓮大聖人・池田大作

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第1回三重県総会 ”信仰の勇者”即”生活の勇者”

1974.10.6 「池田大作講演集」第7巻

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1  第一回の三重県総会、おめでとうございました。(大拍手)これからの三重県のダイナミックな発展と、と皆さまが一人ひとりの健全なる人生の展開とを、まず、心からお祈り申し上げるしだいであります。
 来賓の皆さま方に、ひとことごあいさつ申し上げます。きょうはお休みにもかかわらず、県下の宗門のご僧侶、そしてまた、各界の大切なポストにおられる皆さま、ご多用にもかかわらず、快くご出席をいただきまして、恐縮にぞんじます。全員を代表しまして、厚く御礼申し上げるしだいであります。まことにありがとうございました。
 最初に、きょうのこの日を「三重の日」と決定したならば、どうか、また毎年、総会も開催していってはどうかと提案申し上げますが、いかがでしょうか。(全員、挙手で賛同)
 私がこの三重県にまいりましたのは、五年ぶりであります。この間、三重創価学会もずいぶんいろいろなこともあり、成長も遂げ、当時と比べてかくだんの充実ぶりとうかがっております。
 その間、世界情勢も大きな変動をみせ、ベトナムの停戦、沖縄復帰、日中復交等々、日本を取り巻く諸条件も一新し、それとともにわが社会の経済関係が急速に変わってしまい、今後のビジョンのとり方に、大きな新しい構想を必要とするようになってまいりました。皆さんも、このことはひしひしと痛感しておられることと思います。
 それはさておきましても、今年はまったくひどいインフレでありました。この物価の上昇を抑えるために、総需要抑制策をとって、金融を引き締めておりますが、それが産業のほとんどの部門で供給過剰を引き起こし、製造業部門の製品在庫が増加して、急速に不況感が広がりつつあるのであります。
 この不況とインフレの共存という異常なありさまは、専門家の論調からみて、どう甘くみても、来年前半までは止まらないのではないか、と思うのであります。
 皆さんも、一家の家計については、細心の注意を払っていただきたいと思うのであります。また、地域の同志の方々にも、その点を十分配慮し、指導もしていただきたい。そして、活動上、出費の点で大きな無理がないようにしていただきたいのであります。
 農村に対する出稼ぎ需要の求人も、現状で三割ぐらい減っているそうであります。そうした人々に対しても、しっかり信心を励ましていってほしいと思うのであります。
2  魔に勝つ強盛な信心
 さて、こういう時勢に当面していて、いちばん必要なことは何か。私は、一括していうならば、それは「魔に打ち勝っていくこと」だと申し上げたい。あらゆる幸福の道をふさぎ、不幸のほうにもっていく作用を、仏法では“魔”といいます。
 いまこのような時勢でも、戦後の七、八年の情勢と比べると、まだまだしのぎやすいとも思えます。恩師が第二代会長に就任されたのは、昭和二十六年でありますが、振り返ってみますと、その当時の全会員は、みんなが苦しい生活でありながら、そのなかにあって、生きいきとして、喜んで折伏に励んでいったものであります。じつに活発なものでありました。そうして一身一家へ迫ってくる“魔”と戦い、打ち破りながら、とうとう学会の組織を全国へ拡大していき、盤石なる体制を築くことができ、七十五万世帯にも発展したのであります。
 そのなかにあって、そういう活発なふんいきにつつまれながら、残念にも退転した人も少しはおりました。それは、さきほど申し上げた“魔”のなんたるかを知らなかったり、軽視したり、バカにしたりした人たちであったわけであります。“魔”と戦い、打ち勝った人々はすべて生活面でも立派になりましたし、見違えるくらい、人格も充実して光っております。この三重県のなかでも、ある人も、この人もと、そういう人を、私はたくさん知っております。
 してみると、生活苦必ずしも希望のない、力なき人生とかぎったものではないのであります。生きいきとした力、魔に勝つ強盛な信心、これさえあれば、インフレのなかでも大丈夫である、と進んでいただきたいのであります。
 どうか皆さん、一人ひとりのその尊い人生にあって、自分自身への人間革命の軌跡を立派に勝ちとっていただきたいことを、心からお祈り申し上げるものであります。いま、現在の短い期間の視野だけで世の中をみていては、自分の行き先はさっぱりわからなくなってしまう。長期で、しかも“三世”という過去、現在、未来という視野でみれば、自信がわいてくるものであります。
 聖愚問答抄に次のような御文があります。「SA347E」と。
 学会員として信心を貫けば、必ずこうなるという意味の御書であります。地域の幹部である皆さんが、手本になってくだされば、県下の全会員もまた、必ずそうなっていくでありましょう
 このように、身をもって示すところが、最善の、そして最高の指導というものであります。“所詮、今世は夢のようなものだ”と肚がすわった人こそ、真実の人生を築き上げられるのではないかとも思うのであります。“信心の勇者”とはそういう人のことだと、私は確信しております。“信心では勝ったが、生活では負けた”――そういう“信心の勇者”はありえません。
 四条金吾殿をみましても、主家の江間氏から領地替え等の難にあったが、ついにはかえって所領を加増されております。一般原理として“信心の勇者”は、それに即して“生活での勇者”という姿をも現すものと、私は信じております。それが学会の指導であります。大聖人の仏法原理であります。
 それはまた、社会に尽くしていく姿のうえでも同じであります。飾らぬところ、世の中には、非凡は少なく、平凡は多い。この圧倒的多数者である平凡人が、社会の真のささえ手でありましょう。この多数者が、生活で勝っていくことこそよい社会になると、私は思う。
 江戸時代たくさん出た、あの有名な伊勢商人というのは、そういう人たちではなかったでしょうか。いまは時代が違いますから、商人だけが勝利を得てもしようがない。
 この県下に居住するあらゆる職業の人たちが、一人また一人、そして千人、万人と勝っていけば県下の社会は明るく、そしてよくなっていくのは、当然の道理であります。
 “信心の勇者”の道をいく皆さんが、その先頭に立って、全体へのリードの役を務めていくのが、すなわち、広宣流布のあり方ともいえるのであります。
3  対人関係の持ち方
 私はここで、それについての一断面を申し上げてみたい。すなわち、現代は人間性の回復ということが、全社会的問題になっている時代であります。会社のなかでも、地域のなかでも、個々のポストが孤立してしまって、人間のつながりが切れております。それを改めようとして、いろいろな団体が生まれてもいるし、いろいろな行事が催されてもおります。だが、それでも個人の孤独性を、(排)すことができないでおります。
 その点を考察してみますと「原点が弱い」「全体性に欠けている」「行事なども日常永続性がない」等々の欠陥があるためであろうと、私はみているのであります。
 人間解放をめざす社会運動にせよ、運動しているうちに、目的と手段が逆転して、非人間的な方向へ進んでいっている。してみると、だれがどのように批判しようとも、生命哲学という原点から、生命と生命の交流をはかる我々の運動しか、社会を真実に永続的に蘇生していく運動はないと、私は信ずるのであります。
 したがって、私たちの対人関係の持ち方は、貴賤を問わず、老若を問わず、深く相手の生命の声を聞き、自分もまた生命の声をもってこたえ、その交流のなかから生命哲理の探究を深めあっていく。たとえ、いかなる話題からでも、そこへ進んでいく。そこがもっとも肝要であると、私は思う。
 「法華経は理論の部分は少なく、ほめる言葉が多い。ほめればいよいよ功徳が増す」と、大聖人が仰せられているところをみても、生命の原点をたたえあい、そこから発して、相手の生命と生活とを尊重しあい、人格を大事にしあったならば、現代文明病たる人間性喪失の現象も、必ずや克服できるものと、確信していただきたいのであります。
 ただの同情と親切ならば、キリスト教などでもできないことはないでしょうが、妙法という、一念三千という、この原点にふれた交流でなければ、心の奥底は感動も奮起も生じないのが、人間というものなのであります。
 人により、場合によっての厳しい忠告も、この原点に立ってのものでなければ、反感や反抗心しかわかないのが、人の心というものであります。
 「寿量品談義」に、次のように説かれております。「聖人賢人と教と云ふは悪を誡め善を勧むるには過ぎざるなり。浅深不同こそあれ仏法の此の誡勧の二門に過ぐべからざるなり」と。
 我々の人間関係においての場合、忠告は誡門の方向であり、生命の原点をたたえていくのは勧門の方向であります。真の指導者は一方だけに偏ってはならないのであります。どうか皆さんは、真心をもって「誡勧二門」を自在に使い分けていける幹部になってほしいと思います。
 我々は信仰者でありますが、僧侶ではなくて、社会人なのですから、宗教的能力を人間的能力に応用展開し、更に社会的行動へと進展させていく必要がある。その行動をつうじて、また信心を深めていくのです。個人指導、座談会、教学研究会、文化行事、そして自分自身の勤行、これらはみな有機的なものとして、しっかりとまとまっていることが必要で、そこに観念ではない生きた修行、実践があるということは、重々ご承知のとおりであります。どうか、そうした自覚をますます深めて、皆さん方のその活動を立派な伝統として、この三重県下に末永く築き上げていっていただきたいのであります。(大拍手)

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