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日蓮大聖人・池田大作

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千葉県幹部会 ”陰徳陽報”を確信し愛郷の人に

1973.3.7 「池田大作講演集」第5巻

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1  千葉県の皆さん、しばらくです。お元気でなによりでございます。(拍手)
 皆さんがた一人ひとりが大御本尊を抱きしめて、毎日、健康で明るく元気で暮らしてくだされば、それがなによりでございます。
 家族同士、また隣近所とケンカしたり、あるいは事故を起こしたりするようなことがあったならば、どんなに立派な理念を語ろうが、どんなに立派な話し合いをしようが、なんにもなりません。“真理は身近にある、現実のなかにある”というわけで、健康で明るく地道に暮らしていただければ、そこにいっさいがつつまれているといえるし、なによりも喜ばしいことであると申し上げます。
2  現住の地を“本国土”として前進
 東京の隣接県というものは、最近、めまぐるしいほどの激動の真っただ中に入っており、皆さん方も時代の変遷を激しく感じられていることと思います。人口が爆発的に増えて町ができ、大半の人が毎日、東京へ通勤、通学している。いったい千葉県なのか、また東京都の千葉区なのかわからないような昨今でもあると思います。
 しかし、皆さん方はいったん千葉県へ居を構えた以上、ここを自分の“本国土”として、二十世紀の新しい千葉県をつくりあげていっていただきたいのであります。また、昔から住んでおられる方々は、新しく移転してきた方々をあたたかく迎え入れ、友だちとして、信心のことについても、生活のことについても分け隔てなく、人間同士、心から仲良くしていっていただきたいのであります。
 ところで、皆さん方は他の地にはない誇りをもっておられる。もったいないことでありますが、宗祖日蓮大聖人と郷里を同じくし、信心の血脈を継いでおられるのであります。その大聖人は、次のように仰せであります。「SA205E」と。
 これは、故郷の別当御房というお弟子へのお手紙でございます。蒙古が攻めてきそうなこの時に、なんとか安穏であってほしいと日蓮が思うのは、故郷のことである。日本国よりも安房一国のほうを大切に思う気持ちである、という内容のお手紙であります。
 これは、決して依怙ひいきしておられるわけではございません。それほど、愛郷心を燃やしておいでであったというわけであります。皆さん方もこのような愛郷心に立って、千葉の構築、千葉の広宣流布に励んでいっていただきたい。
 日蓮大聖人は小湊にお生まれになり、清澄寺で幼少の修行を積まれた。そして鎌倉から帰られて、清澄寺で立教開宗あそばされております。しかし、郷里は受けいれなかった。末法の末法たる所以であります。
 原理は、いまとて同じようなものでありましょう。いま日蓮大聖人を郷里の誇りとして、旧跡を観光の名所として自慢のタネにしていても、正しく日蓮大聖人の血脈を広宣流布していく皆さん方に対しては、迫害めいた態度をとってくる人が少なくないようです。
 しかし、長い目でみれば、それでもよいと私は思う。大聖人の故郷の地だからということで、全国に先駆けして広宣流布ができてしまったならばひじょうによいかもしれないが、それはまた道理に合いません。
 私たちは、宗祖ゆかりのこの地において、大聖人が振る舞われたと同じように行動していけば、それでよいのであります。日蓮大聖人が忍辱の鎧を着て、受けいれようとしない故郷を日本国よりも大事に思って愛しぬかれたように、ほんとうに郷里を慈愛しぬいたならば、それが広宣流布に通じていくと、私は申し上げておきたいのであります。
3  信心で矛盾を克服
 我々の人間世界、すなわち仏法で説く娑婆世界は、確かにいろいろなことが起こります。人が集まって住むところ、矛盾がないということは決してない。矛盾はあっちへ姿を現し、こっちへ姿を現し、消えたと思えばまた出てくる。なんとかして人間を困らせてやろうと虎視眈々とねらいを定めて、人を翻弄しようとしてやまない生き物のようなものであります。
 それは、しかも人がこの世で生きていこうとするうえで、どうしても従わざるをえないような奇妙な働きをもっている。不合理であるのに、いや不合理であるがゆえに、人を支配しようとする。そして有形、無形のいずれであれ、我々に迫ってまいります。
 しかし、この矛盾に負けてはならないと、私は申し上げておきたいのであります。これに負けない方法は、一つしかない。それは信心の原点に戻って、冷静に対処するということであります。私たちの小才や小細工でいじりまわすのではなく、題目の力で破っていくことであります。大聖人は次のように仰せであります。
 「SA206E」と。このなかの「されば寿量品なくしては、一切経いたづらごとなるべし」の一句こそ大事なのであります。
 私どもはさまざまな矛盾に支配されて悩んでいる。そこで、いろいろ分別を立て、道理を考え、人生の指導原理たる一切経にしがみつく。いまでいえば、一切経とはあらゆる学説の総称とみるべきでありましょう。
 それに従い、またはしがみついて、それを武器にして矛盾に立ち向かってみる。それでも、なお矛盾は消滅してくれない。あいかわらず我々を悩ましてくる。なぜか。それは、寿量品なくしては一切経は矛盾に対して無力だからであります。
 一つの具体例として、一見、無神経にみえて、なにがあってもケロリとして、悠々と笑って功徳をうけている人を紹介いたします。皆さん方もたまにそういう方をごぞんじであろうかと思います。
 全国どこにでもそういう人がいることを、私も知っておりますが、あるところに八十過ぎのおばあさんがおります。いまでこそ外出もできなくなりましたが、数年前まではブロックのなかを足まめによく歩きまわっていましたから、なんでもよく知っている。なにがあっても最後はケロッとしている。生まれつきの性分で得をしているのかもしれませんが、題目をよくあげ、物事に動じない人でありました。
 おそらく、その人も矛盾の力の支配はたくさんうけていたかもしれない。損をしていたかもしれない。しかし、信心から発する強靱な精神力で、自分の感情の世界からはその矛盾を締め出しているという、見事な姿を忘れてはならないということであります。
 この人に、一切経やあらゆる学問の分別があるわけではない。それらの浅深も知っているわけではない。いわんや人生の操作、統率の仕方をも知らない人でありますが、たくましい寿量品がある。題目を知っている。鍵を知っている。そこで、このおばあさんこそ強い人だ、立派な人だ、このように私は痛感したものでございます。
 入信は昭和二十九年という信心の長い老婦人であります。そこで、皆さん方もこのおばあさんのようにたくましい寿量品、たくましい題目で、矛盾を全部埋めていける、または、それを乗り越えて人人を引っ張っていける――そういう信心をなさったならばどうでしょうか、と私は申し上げたいのですが、いかがでしょうか。(大拍手)

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