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日蓮大聖人・池田大作

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4 生涯青春の生き方  

「健康と人生」ルネ・シマー/ギー・ブルジョ(池田大作全集第107巻)

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1  「今を有意義に」という生き方
 ブルジョ かつて西洋の社会は、ユダヤ教、キリスト教の影響により、社会のすみずみまで宗教的な表現がなされてきました。
 死後の生命についても、昔は皆、それを信じ、口に出して語っていました。今は、多くの人が、死後の世界があるのかどうかわからないけれども、ともかく「今を大切にしていこう」「今を楽しく、有意義に生きていこう」と思うようになりました。
 池田 “今”という時間を一生懸命に生きぬくことは大切です。しかし、未来のために現在があるという視点が失われると、快楽主義におちいってしまう危険性をはらんでいるとも思われます。
 ブルジョ そのとおりです。
 西洋は伝統的な車社会です。今は、ずいぶん多くの日本車が“占領”しています。(笑い)
 人間の身体を複雑な機械である車にたとえることもできるでしょう。しかし車であれば、買うときに保証がついていて故障があれば修理に出せます。
 人間の身体は、そうはいきません。「どうしてこんな身体に生まれたのだろう?」「もっといい身体に生まれたかった」と言っても、車のように修理に出して部品をとりかえたりするわけにはいきません。
 池田 よくわかるたとえです。
 仏法では、天台大師のあげた病の要因の一つに「業の起こるがゆえの病」がありました。病気や障害のなかには、生命深層の業の次元まで掘り下げて考えることを主張しております。
 ところで、一神教では、神が人間をつくった、という考えをします。しかし、世の中には、さまざまなハンディをもって生まれてくる人がいます。神がすべてをつくったのなら、どうしてこうしたことがあるのか。これに対して、これまでさまざまな説明がなされてきていることはよく承知しておりますが、それでも、こうした疑問が残るように思われます。
 また、現代人の「今世を、悔いなく生きていこう」「立派に、価値的に生きていこう」という願いの源泉には、深層意識で“永遠性”を志向しているとは考えられないでしょうか。
 生命が今世だけであれば、論理的には、おもしろおかしく享楽的に生きてもいいわけですが、正しく、善の道を歩んでいこうと考えること自体、じつは、“永遠なるもの”を直感しているからではないかと考えます。
 ブルジョ “永遠性”の問題について、会長と私では、意見に違いがあるかもしれません。「永遠の生命」とは人間の希望的考えではないでしょうか。私には、われわれがもつ永遠の生命という願望は、実現できない夢のように思われます。
 サルトルも明言しているように、この人生の後に生命がなくても、人は慈悲の心や連帯感などをもって自分の人生を生き、人生に何らかの意味をあたえることができます。人類は、みずからの力で立ち上がり、有意義な生き方をするのです。そこにこそ人間の自由と責任が存在するのだと考えます。
 池田 意見の違いがあるのは当然のことです。
 仏典には、「過去を追わざれ、未来を願わざれ。……ただ、今日まさになすべきことを熱心になせ」(「マッジマ・ニカーヤ」、南伝大蔵経十一巻下)とあります。
 サルトルとは、基底をなす死生観は異なっておりますが、“今”というこの一瞬、“今日”というこの一日、そして、この人生を、熱意をもって生きぬけという指針に変わりはありません。この点では、博士と共通するのではないでしょうか。
 ブルジョ たしかに、個人の人生の前にも後にも、宇宙は続いて存在しています。またわれわれの身体の構成物質は、星々を構成するのと同じ物質です。私たちは、より大きな生命体の一部かもしれません。
 池田 博士が言われるように、仏法では、宇宙生命という“大いなる生命体”を自己の生命の内奥に包摂しているのが、私たち人間であると説きます。私たちの身体が宇宙と同じ物質でできているのみならず、心もまた、宇宙の深層と一体だと考えております。この法理を「一念三千」と言います。
 一念とは、私たちの生命です。「三千」とは宇宙生命です。そして、私たちの生命が、物心ともに宇宙と一体である。言いかえれば、「我即宇宙」ということです。
 ブルジョ まさに、人間の内なる宇宙をとらえたのが、哲学の第一歩であり、またそこから詩や散文を紡ぎ出し、さまざまなジャンルの芸術も生まれました。私自身、若いときに、一夜、天空を眺め、万座のきらめく星を仰ぎつつ、しばし瞑想に耽っていたことを思い出します。現在の自分、個々の人間にとっては、一生は一つしかありません。
 池田 まさに、そのとおりです。かけがえのない貴い一生です。
 ブルジョ ですから、今生きる人生を意義あるものにし、善の行いを積み重ねていきたいと考えるのです。
 池田 仏法者も、「一念三千」の法理に基づいて、善の“一念”による行為を積み重ねていくことを誓っております。
 その意味で、日蓮大聖人は「百二十まで持ちて名を・くたして死せんよりは生きて一日なりとも名をあげん事こそ大切なれ」と説いています。たとえ、一日でも、民衆のため、人々のために尽くし、社会のために尽くしたという“名”をあげることこそが大切であるという意味です。
2  生老病死の「四苦」を「楽」に転換する法
 池田 ところで、話は変わりますが、ここにも「百二十」と説かれているように、仏法には、人間は百二十歳まで生きられるという説があります。
 博士は、人間は何歳まで生きられると思いますか。
 ブルジョ 人間が何歳まで生きられるか、明確には答えられません。百二十歳以上とも、それ以下とも言う人がいます。しかし、遺伝子の中に、「必ずいつかは死ぬ」ように、情報が組み込まれているのはたしかです。
 私は十一年前、突然、五十歳になりました(笑い)。そのとき、「自分もいつかは死ぬんだ」と“発見”したのです。(笑い)
 そう言うと、「そんなことは昔からわかっている」と友人は皆、笑いました。しかしそのとき、楽観主義者の私なりに、人生の半分まできているのだと、深い感慨に打たれたのです。
 池田 日本もカナダも、先進諸国は「高齢社会」を迎え、「人間がいかに老い、死ぬか」がすべての人の直面するテーマになりましたね。
 医学はこれまで、人間の老化現象についてさまざまな研究を重ねてきました。寿命は細胞分裂の限界によって決定するという説や、遺伝子に老化をつかさどるものがあるという説などがあります。博士は、この老化の生態についてどのように思われますか。
 ブルジョ 医学は寿命を延ばすことには成功しましたが、生命に新しい活力をあたえるところまではいっていません。フランスの栄養学者ジャン・トレモリエールは繰り返し述べています。「大切なのは、生きる年数を増やすようにすることではなく、老齢に生命をあたえることだ」と。
 老いとやがて来る死に関して言えば、私自身は不可知論者です。
 作家で高校教師のダニエル・ペナックは、その小説『散文売りの少女』の中で、マロセーヌという主人公にこう語らせています。
 「年齢とは残酷なものだ。(中略)どの時代をとっても、最低のまやかし以外の何物でもない。たとえば幼年時代、人に頼りっきりで、自分ですることと
 いえば、扁桃腺ぐらい。青年時代、闇雲に突っ走って、訳のわからない質問ばかりしている。壮年、ガンとナンセンスな成功、老年、動脈硬化と、取り返しのつかない後悔」(笑い)
 池田 痛烈な風刺ですね。しかし、人生の生老病死の一面をえぐっています。
 ブルジョ もちろん、これは因習打破を試みてわざと嗜虐的、批評的に言ったものです。しかし、仏法の「四苦」をなぞらえているようにも思われますが、いかがでしょうか。
 つまり、人生のあらゆる段階に、生きていくための困難があるということでしょう。
 池田 ご指摘のとおり、仏法では、厳しき現実の人生のあるがままの姿を「生老病死」の「四苦」ととらえています。人間は生まれながらにして、この「四苦」を生命それ自体に内包しています。
 同時に、仏法では、日常的、具体的な苦も省察しております。
 第一に、「愛するものと別れなければならない苦」(愛別離苦)があります。どのように愛しあっている人でも、さまざまな事情によって、別離の悲しみが待ち受けている。その究極が“死”です。
 反対に「憎むものと会わなければならない苦」(怨憎会苦)というのもありますね(笑い)。これが二番目です。家庭のなかや、仕事場で、怨念や憎しみを抱いて生活しなければならない苦しみは、まさに絶望的とも言えましょう。
 第三に、「求めても得られない苦」(求不得苦)があります。これは、欲求がかなえられないときの苦しみです。欲望には、物質的欲望もあれば、社会的欲求、心理的・精神的次元の欲求もあります。先進国では、たとえ物質的・社会的欲望がかなえられた人々も、「人生いかに生くべきか」という精神的・実存的次元の欲求不満にとらわれています。社会的に無力感がただよい、悲観主義やうつ状態に入り込んでいく苦しみが蔓延しています。
 これまでの「七つの苦」――「四苦」と具体的な三つの苦――の基盤にある生命の働きから起こる苦を「五陰盛苦」と言います。
 「五陰」とは、身体と心の働きです。人間は生きているかぎり、肉体的にも活動し、心も変転してやまない。このような心身の活動そのものが、苦悩を生みだすというのです。そこに生命のもつ本然的な苦があるとします。
 しかし、仏法は、この厳しき現実の直視から出発して、「苦」を「楽」に転換する人生道をさし示すのです。むろん、この「楽」とは「快楽」ではなく、真実の「幸福」を意味します。
 ブルジョ 楽しかった子ども時代、黄金のような青春、人間的成熟が招来する成功、老年の知恵……。それらは幻想かもしれませんが、私たちは、そのような甘い幻想にひたりたがるものです。
 ただ、前を見て、後ろをふりむかないための警句としてか、「美しい年代というものはない」という常套句もあります(笑い)。しかし、本当は、どの年代も美しいものでありうるのです。
 池田 あるフランスの作家が、人生を川の流れにたとえていました。
 青年時代は、ほとばしる急流のごときものである。中年は、とうとうとした流れになる。そして老年は、すべてをつつみ込み、悠々と景色を川面に映しゆく「鏡のような大河」となり、やがて「大海」へと注ぎ込む、と。
 人間は、生きていくそれぞれの段階で、幼少期から思春期・青年期、そして、壮年期から老年期へと、通りゆく人生の軌跡があると思うのです。
 急流のごとくひたむきに生きて輝く「青春の時期」。家庭をもち、社会の中で責任ある仕事をもつ「成熟の時期」。人生の意義を深く考えゆく「知恵と完成の時期」。そして、「老」から「死」と直面する「人生の総決算の時期」――。
3  本当の「若さ」は「開かれた心」にある
 ブルジョ これは私の個人的な感想ですが、年をとりながら、人間はゆっくりと円熟さを増していきます。そして、豊かな人格が陶冶されていきます。もちろん、例外もありますが。(笑い)
 池田 おっしゃるとおりです。いくつもの段階、さまざまな年輪を経て、どれだけ奥深く、広がりのある、自信ある人生観、死生観をもてるかどうかが、人生の勝負です。その意味で、「加齢」とは、人間としての「成長」、人格完成への軌跡でありたいものですね。
 ブルジョ 私自身、そのような成長過程の段階をよく公言したものです。三十歳になったとき、私は「二十歳のときより若返った気がする」と。四十歳になったときは、「三十歳のときより若返ったような気がする」と。今、当時の記憶をたどってみると、たしかに二十代より三十代、三十代より四十代のほうが、自身の行動の範囲が広がりました。
 また、自分の生得の能力について自信をもち、経験も豊かになり、積極的になってきました。それゆえに、胸襟を開いて、新しい出会いを歓迎し、新しい友情を育み、新しい対決にも対応できたのです。
 池田 みごとな「人間完成」へのプロセスですね。
 人生のあらゆる場面で、「四苦」を超克しつつ、大海のごとき境涯を広げていかれたのですね。
 ブルジョ とんでもありません。いずれにしても五十歳を過ぎると、そういう言い方をするのにためらいを感じるようになりました。というのも、「若さ」の本当の意味を考え始めたからです。そして、若い世代、自分の子どもや学生たちに対する責任、彼らとともにあることの意味を強く意識するようになりました。自分がもはやこの世に存在しなくなった後も、人間生命の大きな流れを存続させていくことに対する責任感とでも言えましょうか。
 池田 人間にとって、「若さ」の本当の意味とは、肉体的年齢のことではない。仏法的に言えば、「一念」の柔軟性や寛容性、つまり「開かれた心」をさします。
 ブルジョ 私も、「開かれた心」や柔軟性が青年期の特徴で、頑迷と偏狭が老年の特徴とは、一概に言えないように思います。
 池田 そのとおりです。高齢になっても、社会の中で積極的に活躍し、創造的な仕事をされている人、社会のために奉仕しゆく人は多くおります。そういう方々を見ますと、豊かな経験に基づき、鋭い洞察力と総合判断力を発揮して、新しい知識を次々と吸収しています。まさに、社会と人生に「開かれた心」の持ち主です。
 そのような人生にとって、「老い」とは、この世での“人生ドラマ”の人格完成への最終章を描きあげていると言えます。それこそ、創造と希望と歓喜のドラマです。
 ブルジョ 私自身の経験からすれば、新しいものを率直に受け入れ、むしろ歓迎できるようになったのは、二十歳の時よりも、四十歳、五十歳になって
 からです。
 池田 仏典に「年は・わかうなり福はかさなり候べし」とありますが、博士の人生の軌跡は、まさに「生涯青春」の姿そのものです。ますます真実の「若さ」を謳歌していただきたいと思います。

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