Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

第二章平和の橋  

「平和と人生と哲学を語る」H・A・キッシンジャー(全集102)

前後
1  SDIの危険性について
 あらためて胸に迫る「核時代の闇の深さ」
 池田 今回の訪米のさい(一九八七年二月)には、ご多忙のなか、わざわざ滞在先のマイアミまでお電話をいただき、ありがとうございました。
 キッシンジャー 本当はロスにでもお訪ねしようと思っていました。急にスケジュールが立て込んでしまい、電話で失礼しました。
 池田 モスクワでゴルバチョフ書記長と会見されたようですね。
 最近のソ連の印象を電話でもうかがいましたが、米ソ間にはそれぞれの事情があるにせよ、軍縮への歩み寄りの兆しが見られる。今後の進展が注目されるところです。
 今回から「平和の橋」の章に入りますので、まず、そのへんの基本的な問題からこの対談をつづけたいと思います。
 一九八三年三月二十三日にレーガン大統領が、いわゆる“スターウォーズ演説”でSDI(戦略防衛構想)を初めて明らかにして以来、いまだ“構想”の域を出ていないにもかかわらず、SDIは国際政治の“台風の目”として取りざたされてきました。
 ここでは、科学技術上の観点での実現性に対する疑問や経済性(コスト)の問題など、SDIの現状について詳述することは避け、この問題について考えるとき、あらためて胸に迫る「核時代の闇の深さ」について申し述べたいと思います。
 ミサイルの命中精度の向上と核弾頭の破壊力の増大といった、近年の軍事技術のめざましい進歩により、かつての核抑止力理論は大きく揺らいできました。
 つまり先制第一撃が有利になり「相互確証破壊」という概念の終焉をもたらしたわけです。
 ソ連がSDIを脅威としてとらえるところも、第一撃力とミサイル防衛力の役割を果たすSDIによる、米国の一方的な軍事的優位であると考えられる。
 しかし、それはダレス時代を思わせる大量報復戦略の焼き直しであり、復活を意味するでしょう。ここにSDIが世界の政治・戦略上の焦点となった要因があります。
 このようにSDIは、レーガン演説でいう「一切の核兵器を無力化し、時代遅れにする」というような“完全防衛=絶対平和”の至福を現代世界に実現するどころか、実際には、辛うじて“核抑止力”の理論下で保たれてきた(それさえ危ういものだと私は思っていますが)、国際的安定性さえも崩壊させる危険な存在となっていると言えます。
 さらに一九七二年に米ソ間で結ばれたABM協定(弾道弾迎撃ミサイル制限条約)やSALTⅠ(第一次戦略兵器制限交渉)と、それにつづく一連の軍備管理上の合意の精神と内容が、一挙に死文化してしまうという問題も看過できないでしょう。
 私はこれまでも、米ソが宇宙空間での武力行使を禁止する条約を締結、という項目に加えて、核時代の人類の生存の絶対的条件はあらゆる戦争の否定であるという考えから、仮称「世界不戦宣言」の国連決議採択をNGO(非政府組織)レベルで推進すべきことを主張し、また提言の中で訴えてきました。
 所詮、核の脅威という軍事・安全上の不安を、SDIという新しい科学技術(ハイテク)による兵器体系の開発で解決しようとする、いわば“ハードな
 発想”自体に誤りがあり、限界があると思えてなりません。
 核の脅威を解消するためには、まず核超大国である米ソ間の「利害の調整と共存への合意」という交渉による努力と、政治の主体者である民衆による国境や体制の違いを超えた核軍縮・廃絶への国際世論のいっそうの形成、といった“ソフトな側面”での働きかけこそが、最大のカギとなると考えるからです。
 博士は、最近の米ソの動きとあいまって、このSDIの問題についてどのように考えておられるでしょうか。
 キッシンジャー SDIが平和を増進するか、それとも核軍拡を助長するかは、それがどのように立案され、どのような形で交渉が行われるかにかかっています。
 まず平和に貢献するほうを考えてみますと、現在超大国の核戦略では大量破壊の必要性が重視されていますが、SDIはそうした必要性を減少させたり、あるいは皆無にすることができるでしょう。
 今もてはやされている核抑止力理論は、一般市民や産業に甚大な損傷を与える能力のあることを前提にしています。
 これは暴力至上主義的な考え方です。なにか一つでも手違いがあれば、世界が破滅するという結果になるでしょう。
 レーガン大統領は、一般市民大量殺傷という考えに代わるべきものがなければならない、と主張しましたが、それは正鵠を射ております。
 同大統領はまた完全防衛が可能であることをほのめかしましたが、こちらのほうは目標があまりにも欲張りすぎているという感がします。
 万一可能だとしても、今度は相手国がそれを無力化するために、新しい、大規模な攻撃準備に努めるきっかけとなることは確実です。
 他方、防衛努力を完全にやめてしまったと仮定しましょう。
 それは事実上、人類と平和の未来を、最も情け容赦のない国――つまり、みずからの目的を達するためには核戦争も辞さないという姿勢を保つ国――の手に委ねる結果になります。
 そうした理由から、戦略防衛については戦略攻撃と関連させながら、外交手段を通じて交渉すべきであると私は考えます。
 兵器制限交渉は、戦略攻撃に課せられる制限に比例して防衛にも制限を加えることを目標とすべきでしょう。攻撃力が減少すれば、防衛力もそれに応じて小さくすることができるはずです。
 しかし核兵器が完全に廃絶されたかどうかを検証することは不可能です。したがって、攻撃力・防衛力のいずれにおいても、核保有量がゼロになることは決してありえないでしょう。
2  核時代と政治指導者
 核戦争に反対を唱える人はいても、反対の気持ちだけは激しいが、それを実現する実際的な手段をもたない人が多すぎる
 池田 多くの人々が危惧するのは、新たな戦略の開発は必ずそれを打ち破る新たな開発を引き起こすという悪循環があり、人々が期待する方向とはまったく正反対に進む可能性をもつからです。
 今日、核超大国の指導者の責任は、限りなく大きいと言わねばなりません。
 昨年(一九八六年)の八月、米国務省が公表した一九五五―五九年の対中国、台湾関係の外交文書があります。
 その要約によると、当時、アイゼンハワー米大統領は中国軍の金門島(チンメン島)砲撃で始まった台湾海峡危機のさい、中国軍の攻勢しだいでは中国本土に対して核兵器を使用する方針を決定していた、という新たな事実が明らかになりました。
 かつてニクソン元大統領は、「タイム」誌のインタビューに答え、在任中、少なくとも四回、核兵器の使用を“考慮した”ことがある、と述べています。
 博士ご自身、このインタビューに対する感想を問われ、当時、政府が核兵器使用を考慮したような具体的な状況や危機はなかった、と断言されております。
 ただし、ニクソン氏がホワイトハウスの執務室や居室にこもって、どのような対応策を考慮したかについては定かでない、というものでした。
 そして政府の枢要なポストに任命されると、まず知らされるのは、核戦争の結果が、おおよそどんなものか、ということだと述べ、自身、これまでのどんな政治家も直面したことのない責任を負っているという実感をもつ、と語っておられます。
 さらに、国家の安全保障を核兵器による大量破壊の威嚇に求めるという、戦後一貫して西側防衛の根底をなしてきた政策が、妥当性を失いつつあることは明白であり、核兵器への過度の依存こそ、戦略思考の麻痺と軍備管理の役割の矮小化の元凶、という認識を示しておられる。
 この発言は、核戦争の危険性を熟知し、“恐怖の均衡”に依存する戦略の矛盾を正しく認識されたうえでのものであり、私自身の考え方とも軌を一にするものであります。
 かつてケネディ、ジョンソンの両政権時代に国防長官を務め、権力の最中枢にいたロバート・マクナマラ氏は、その著『安全保障の本質―回想録』(一九六八年)の中で、次のように述べています。
 「われわれはいまだに、国家安全保障を巨大な恐るべき兵器類の貯蔵、という武装態勢としてのみとらえがちである。また安全をもたらすものは、主として純粋な軍事的成分と考えがちである。われわれは軍事的ハードウェア(兵器)の概念にとりつかれているのである。
 この概念がいかに狭いかは、たとえば米国とカナダのあいだに存在する平和がどのようなものかをたたき台にしてみればはっきりする」(原康訳、サイマル出版会)
 マクナマラ元国防長官にしてなお、軍事力への過度の傾斜を戒め、非軍事的な手段によっても国家間の平和が維持しうることを論じているのは、現代にあってきわめて示唆的だと言わねばなりません。
 博士自身も述べられているように、核戦争の破局的な性格からすれば、米ソ共存の道を探ることがまず肝要です。
 また超大国の国内事情を見れば、今、軍拡競争回避に突破口を開く好機にあるとみたい。こうした基本認識に立って“恐怖の均衡”という核戦略から脱却した、具体的な新たな平和の構造を求めるべきであると考えます。
 キッシンジャー 私が国際問題について執筆を始めたときから、私は、核兵器が人類の歴史に質的変化をもたらしたことを指摘してまいりました。
 過去の時代に国家が戦争を遂行したのは、戦争よりも悪い事態を回避するためでした。
 今日、核兵器は人類を破壊させる力をもっており、考えられる最悪の結果を招来することもありそうです。
 われわれは、チェルノブイリ原子力発電所の事故を通して、一度の核爆発であっても壊滅的な大惨事をもたらしうること、そしておそらく核爆発を引き起こした国民が、最もひどい被害を蒙るだろうということを実感しました。
 しかし、それにしても、ここにジレンマがあるのです。もし、なによりも核戦争を恐れているという印象を与えたならば、きわめて残酷でおそらくは暴力革命を信ずる者に、核兵器による恐喝の隙を与えることになります。
 われわれは核戦争も核兵器による恐喝も回避しなければならないのです。
 この問題のむずかしさは、何度交渉を重ねても、多くの場合、象徴的な意義しかもたず、現実の変革につながらない事柄を提案したい、という誘惑に勝てないことです。
 ところが交渉の決定的な面は、実際に違いをもたらすような協定を結ぶことなのです。
 ただ核弾頭の数を減らしても、残った核弾頭だけでも人類を一度ならず滅亡させる力があるとすれば、それでは象徴的な変化にすぎず、現実にはなにも変わりません。
 実質的に核戦争の危険を減少させる解決策を見いだすことが大きな課題なのです。核戦争に反対を唱える人はいても、反対の気持ちだけは激しいが、それを実現する実際的な手段をもたない人が多すぎるのです。
 池田 私は、米ソ首脳会談が開催されるときに現実
 に変化がもたらされるよう、博士にもご尽力をお願いしたいと思います。
 さまざまな機会を通し、私も軍縮への具体的提言をしてまいりました。なかんずく、米ソ首脳が緊張緩和への突破口を開くため、粘り強く対話を持続すべきであります。
 キッシンジャー 核兵器の管理という問題は三十年来、私の心から離れなかった課題です。私は生涯、この課題にわが身を捧げる所存であります。
3  まず発想の転換が必要
 「解放された原子力は、われわれの思考様式を除いて、一切のものを変えました」
 池田 そのお言葉は、百万言の重みがあります。また私も一仏法者として、平和こそが最大の使命と思っております。
 一九七九年に博士と会談した折、私は「平和とは戦争のないことではなく、美徳であり、精神のあり方であり、慈悲と確信、そして正義への性向である」とのスピノザの言葉(『政治論』より)に共感をおぼえると申し上げました。
 それは、人間の精神の中に確たる文化的状態をいかに実現していくかが、「平和」への出発点であり、仏法は、人々の生命の内に深い知恵と広大な慈悲の精神を打ち立てる「法」を明かしているからです。
 恒久平和が人類共通の願いでありながら、人類史が戦争につぐ戦争の歴史であり、わずかにその幕間に束の間の平和があったという指摘は、残念ながらあながち的外れではない。
 私は、そこにも戦争と平和の問題を、たんに軍備体系や政治システムの問題としてのみとらえるので
 はなく、人間の問題に即して考えなければならない大きな理由があると思うのです。人間にとって戦争は、外から襲いかかってくる災いというより、人間の心の中から起こり、人間自身が演ずる悲劇であると言ってよい。
 かつてローマ・クラブ会長の故アウレリオ・ペッチェイ氏と対談したさい、氏も平和とは一つの無形の価値であり、心と精神の文化的な状態であると定義づけていたのが、強く印象に残っております。そこには、戦争は人間精神の醜い一面が噴出した結果として起こるものである、との基本認識があります。
 今、このことをあえて強調しなければならないと思うのは、近年の核戦争を頂点とする軍事戦略的思考が人間を“物”に見立て、いかにして人命を効率よく殺傷するかという、きわめて非人間的な論理に立脚しているからでもあります。
 核先制攻撃による確証破壊能力の計算などに取り組む人々の発想に流れるものを見ると、そのことが私は痛感されてならない。
 近代文明の特徴は、ある意味では、種々の人間的営為の中で、科学と政治が、決定的に優位に立ったという点に求めることができましょう。
 その底流にあるものは、主観と客観世界とを明確に立て分け、客観世界を人間能力の支配下に置こうとしてきた、近代ヨーロッパ主導型の思考様式であります。
 その結果、解放された人間能力は、その裁量する領域を、前代とは比較にならぬほど拡大してきました。これが、現代の巨大科学であり、巨大な政治システムであります。
 こうした文明のあり方が行き詰まりを呈し、逆に、拡大された客観世界が、人間それ自体を支配しつつ、不信と対立の闇を深めていることは、あらためて指摘するまでもありません。
 その意味では、核兵器という“ダモクレスの剣”に脅えた殺伐たる現代の姿は、科学や軍事、政治などが先行しつつ、人間がそのもとに従属化してきた近代史の一側面の極北に位置すると言ってよいでしょう。
 キッシンジャー 当然のことながら、人類はこの問題への回答を長い間探し求めてきました。
 一つの次元から言えば、平和とは戦争のない状態であります。しかし、それにしても非常に長い間戦争が起きなかったということは、かつてありませんでした。
 私は、世界平和を実現するには、諸国家、諸国民が、既存の国際機構について、それがいかなるものであるにせよ、本質的には自分たちの欲求や希望を満たしてくれるものであるという点で、合意する必要があると思います。
 自明のことでありますが、いかなる国際機構といえども、すべての地域の、すべての人々の希望をことごとく満たすというわけにはいきません。
 したがって、自分たちの重要な願望は実現に向かっているのだ、という思いをもつことが必要なのです。そして、平和を維持するためには、少なくとも、不満を解決する道は、現在の制度を破壊するところにあるのではなく、現在の制度の中にこそ、その解決があることを確信する必要があります。
 池田 私も、まず発想の転換が必要と思う。
 もとより、博士が指摘してこられたように、核兵器の問題を“すべてか無か”(オール・オア・ナッシング)という極端な形でとらえることは、戦略思考の次元での怠惰を生むという側面もありましょう。
 しかし、核兵器の出現および核戦争の脅威というものは、たんに従来の兵器や軍事といった問題の延長線上の次元のみでは考えられない。
 それらを包み込んだ文明史的位置づけからの発想が急務であります。
 つまり、アインシュタインが「解放された原子力は、われわれの思考様式を除いて、一切のものを変えました」(O・ネーサン、H・ノーデン編『アインシュタイン平和書簡』2、金子敏男訳、みすず書房)と述べたように、人類は、その英知の結晶であったはずの巨大な力に、みずからも屈服してしまうか、または、それを克服する偉大な精神性と行動を発揮しうるかの運命的な分岐点にあるからです。
 ともあれ、この問題は、これからも一生の間、お会いするたびごとに語りあっていきたい。当然、博士と私の立場、また見解にさまざまな相違点があることも、私はよくわかっております。
 しかし、対話は論争や勝ち負けが目的ではない。互いにその信条、思想、また意見を自由に語りあい、また昇華させあいながら、そのうえで多くの第三者の方々が、どう未来への方向づけの鏡とするか――そこに価値と真髄があると思ってきたからです。

1
1