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日蓮大聖人・池田大作

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東洋哲学研究所の使命  

2004.2.4 随筆 人間世紀の光1(池田大作全集第135巻)

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1  「思想戦の王者」たれ!
 人の世で一番大きな力は何か。それは思想である。
 ゆえに、ユゴーは思想の闘争を宣言した。
 「弾丸を交換するよりも、思想を交換しよう!」(Oeuvres Completes, Le Club Francains du Livre)
 「世界を引っ張っていくのは機関車ではない。思想である」(Les Miserables, traslated by Norman Denny, Penguin Books)
 「剣による征服。だれがそれを望むか? だれも望まぬ。思想による征服。だれがそれを望むか? 万人が望む」(Napoleon the Little, Howard Fertig)
 思想というと難しい感じがするが〈ものの見方〉ということである。
 思想・哲学は眼には見えないが、個人の行動を左右する。社会の命運をも決めていく。すさまじい巨大な力をもっている。
 二月四日は「東洋哲学研究所の日」。今年で創立四十二周年となる。
 天台大師は″釈尊は、四十二年間の準備の後、満を持して法華経を八年間説いた″とした。
 研究所も、四十二年間の業績に国内外から高い評価をいただいているが、その土台の上に、いよいよ本格的な出発をする時がきた。
 「大哲学の不在」と言われる闇の世界に、法華経の大光を贈りゆく使命があるのだ。
2  「ああ、生きていてよかった!」。高名な仏教学者が感嘆の声をあげておられた。
 「法華経とシルクロード展」(一九九八年、東京)。
 これまでどうしても見られなかった法華経写本の実物が目の前にあったからである。
 「門外不出のはずなのに、ロシア科学アカデミー東洋学研究所は、よくぞ出してくれましたね! 驚きました」
 その人類の至宝を、私も見た。勇んで見た。
 経文の文字は生きていた。光っていた。躍っていた。
 文字は文字ではなかった。命であった。
 日蓮大聖人は、「仏は文字に依つて衆生を度し給う(=救われる)」、そして「文字と思食事なかれすなわち仏の御意なり」と。写本の一字一字に「仏の御心を伝えん」と書きとどめた人たちの熱い祈りがこもっていた。
 シルクロードを行きかう民衆に「生き抜け! 運命は変えられる」と希望を語り続けてきた《経の王》法華経よ。
 人はなぜ苦悩に負けるのか? 自分が仏だと気づかないからだ! そこに気づかせるのが法華経である。
 《人は誰もが本来、仏なり》という鮮烈きわまるメッセージ!
 これを万人の胸に届けるため、無数の仏法者が雪山を越え、砂漠を渡り、邪悪な妨害と戦い続けた。
 私は、ロシア・東洋学研究所の戦いを思った。
 同研究所内に我が東洋哲学研究所のロシア・センターもあるが、法華経をはじめとする貴重な文物を命がけで護ってこられた歴史がある。私はその「戦う魂」に感動した。
 この方々を見よ! と。
 第二次大戦中、ナチス・ドイツは、研究所のあるレニングラード(現・サンクトペテルブルク)を猛攻撃した。
 「レニングラードという都市を、この世から無くしてやる」と豪語し、九百日、二年半もの間、包囲したのだ。しかし、この英雄都市は生きのびた。
 われらもまた「創価学会を、この世から無くしてやる」という悪魔の意図をもつ総攻撃と戦ってきた。
 レニングラードの研究所。激しい砲撃が壁を揺るがす。破壊。暗闇。厳寒。飢餓。次々と家族が病んでいく。友人が倒れていく。それでも研究員たちは屈しなかった。
 「護るのだ。幾世紀を生きのびてきた人類の遺産を護るのだ!」
 凍えた手に、はーっと息を吹きかけ、凍ったインクを息で溶かしながら仕事を続けた。その息も、やがて絶え絶えになり……文献の上に、うつぶせるようにして殉職した研究員もおられた。
 「何があろうとも、研究は前進させる! 死にもの狂いで書き続けてみせる!」
 それが侵略者の野蛮との彼らの戦いであった。文化の戦いであった。人間の尊厳をかけての死闘であった。
 我が身のことなど微塵も考えなかった。《無私》を理想とする東洋哲学の真髄を実行されたのである。
 「大人は己なし」と中国の荘子は言ったではないか。
 法華経にも「身命を愛せず但だ無上道を惜しむ」(法華経二四〇ページ)とあるではないか!
 文化の人とは、個人的な打算など投げ捨てて生きている人のことである。権力・金力・地位力・権威力、それらに対する「精神の闘争」こそが「文化」なのだ。
 しかし、師匠の日蓮大聖人が命がけで思想闘争を敢行しておられる時も、自分の名声を追う弟子がいた。たとえば三位房。京都の貴族の前で説法し「面目をほどこした」(御書一二六八ページ、趣意)などと言っていた。大聖人を心中で低く見ていたのである。
 権威・権力に近づき、我が身を飾りたいという見栄っ張りの敗北の姿であった。
3  私が東洋哲学研究所を創立したのは《思想戦の王者》になってほしいからである。
 あれは会長就任の翌年、一九六一年(昭和三十六年)の一月であった。私はアジア歴訪の旅に出た。香港、セイロン(スリランカ)、インド、ビルマ(ミャンマー)、タイ、カンボジア。
 旅の間中、私は考え続けていた。
 日蓮大聖人の御遺命である「仏法西還」をどうすれば現実にできるのか。恩師・戸田先生の「東洋広布を頼むぞ」の一言にどう応えゆくのか。
 ――独善的な主観主義であってはならない。
 思想は、誤れば大変な悲劇をもたらす。
 あの凄惨な「インパール作戦」も、そうした破局の実例であった。ビルマでの日本軍の無謀きわまる作戦のことである。
 その中で、私の長兄も戦死した。いな、戦死させられた。超国家主義という誤れる思想の犠牲になったのである。
 「二度と戦争を起こさせない世界にするには! 法華経の真髄たる生命尊厳の思想を広めきっていくことが根本となる。
 しかし大聖人の教義をそのまま説いても、すぐには理解できないだろう。アジアだけでも、南伝仏教の国もあればイスラム教の国もある。文化も社会構造も多様である。その内実を正確に認識しなければ対話にならない……」
 釈尊が悟りを開いたとされるブッダガヤの大地に、私は立った。そして決意した。
 「東洋および世界の思想・哲学・文化を多角的に研究する機関が絶対に必要だ。学理・理性は『普遍性の広場』だ。その場で広々と開かれた対話を重ねていこう。誰人も納得のできる『文明間の対話』『宗教間の対話』をやっていこう。法華経は一切を生かすからこそ王者なのだ!」
 ブッダガヤの空は、突き抜けるように青かった。大いなる未来へと輝きわたるかのような空だった。私の脳裏には、御義口伝の明文が浮かんでいた。
 「此の経の広宣流布することは普賢菩薩の守護なるべきなり
 普賢菩薩とは″法華経の行者を死守いたします!″と誓願した菩薩である。
 こうして翌六二年、東洋学術研究所――後の「東哲」は誕生した。
 私はその翌年には音楽の広場「民音」を創立した。妙音菩薩である。そして教育界へも、政界へも、平和のための布石を続けた。頭の中を「思索の嵐」が吹き荒れていた。

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