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明暗  

小説「人間革命」7-8巻 (池田大作全集第147巻)

前後
1  一九五四年(昭和二十九年)三月、思いがけない事件が、日本国民の上に降りかかった。
 事件の発端は、三月一日、北太平洋上に浮かぶビキニ環礁で行われたアメリカの水爆実験である。
 実験は、珊瑚礁の上に建てられた高さ百五十メートルの鉄塔の上で、水爆を爆発させたものであった。爆発の衝撃で、この島に直径約一・八キロメートル、深さ約七十メートルの大穴が開いた。五十万トンと推定される莫大な量の珊瑚が、粉末となって空高く吹き飛ばされたのである。
 この水爆の爆発力は、TNT火薬に換算して千五百万トン(十五メガトン)の威力をもつと推定された。四五年(同二十年)の終戦直前、広島、長崎に落とされた原子爆弾の威力が、十五から二十キロトン(〇.〇一五〜〇.〇二メガトン)相当のものであったとされていることを考えると、ビキニの水爆実験の規模が、どれほど大きなものであったか想像されよう。一発の水爆の破壊力は、なんと、第二次世界大戦に消費された全火力の二倍にも三倍にも相当するという。この一事からも、水爆の威力が、いかに恐るべきものであったかは明瞭である。
 それまでに原水爆の実験が、なかったというのではない。四五年(同二十年)七月、アメリカでの最初の原爆実験が行われて以来、ソ連、アメリカは、原水爆実験を繰り返し、イギリスも、オーストラリアで原爆実験を行っていた。
2  しかし、ビキニでの、この水爆実験が、日本の人びとに異常な恐怖を与えたのは、この日、一隻の日本のマグロ漁船が、被曝したためである。漁船は、第五福竜丸という一四〇トンの小型木船で、乗組員は二十三人であった。
 ミッドウェー海域で操業してから南下し、マーシャル諸島海域へ向かった。この海域で幾度かの操業のあと三月一日未明、最後の操業のための作業を終えた乗組員の多くは、仮眠をとるために船内のベッドで横になっていた。
 この時、第五福竜丸は、ビキニ環礁の東方約百六十キロのところでエンジンを停止し、静かな波に揺られていた。アメリカ原子力委員会が指定した、広い航行禁止区域の境界から、離れた地点である。
 現地時間の午前六時四十五分、船員たちは、空に異様な光を認めた。広い大洋の真っただ中である。辺り一面が明るくなり、船は不気味な光に包まれた。水平線に巨大な火の玉が見えた。
 一月二十二日に静岡県の焼津港を出港した第五福竜丸は、そして、七、八分過ぎたころ、すさまじい轟音が海面一帯に轟き、船体が大きく揺れた。
 異常事態である。船は急いで延縄はえなわの巻き揚げにかかった。
 西の空に黒い雲が空高く広がっているのが見えた。この日、空はよく晴れていたが、その雲が徐々に広がり、しばらくすると、船の上空も覆ってしまった。辺りは薄暗くなり、急に天候が悪化して強い風が吹き、雨も降り始めた。吹きつける雨には、白い粉が混じっていた。
 雨が止んでも白い粉は降り続いた。数時間かかった揚げ縄の作業中も、船に降り注ぎ、甲板の上も白くなった。
 作業を終えた第五福竜丸は、焼津港に向かった。しかし、白い粉が降下する地帯から脱出するのに、さらに数時間を要したのである。
 その日の夕方から、乗組員は体に異常を感じ始めた。多くの人が、食欲がなくなっていた。やがて頭痛を訴えたり、めまいや吐き気を催す人が続出した。頭髪が簡単に抜ける人もいた。
 第五福竜丸は、このような乗組員二十三人を乗せて、三月十四日朝、母港である焼津港に着いたのである。乗組員は、帰港の喜びのなかで、そろって疲労を訴え、日焼けとは違った、異様に黒ずんだ顔をしていた。首筋や、手などが、赤く腫れ上がっている人もいる。歯ぐきからの出血もあった。
 その日は、日曜日で、病院は休みだったが、船主に勧められ、乗組員全員が地元の病院に向かった。
 彼らを診断した当直の医師は、広島、長崎の原爆の被爆者と同様な症状が現れているのを見て、″あるいは?″と疑問をもった。ビキニ海域で水爆実験が行われたというニュースを思い出したからである。そして、特に悪化している二人の船員を、東大付属病院に紹介することにした。二人は、翌十五日、東大病院第一外科を訪れ、診察を受けた。
 その結果、一人は即日入院、他の一人は入院準備のために、いったん焼津に帰ったが、翌十六日に入院した。二人の体は、放射性物質にひどく汚染されていることが判明したのである。
3  この日、三月十六日付の「読売新聞」朝刊で、第五福竜丸の乗組員の被曝が大きく報道された。
 「邦人漁夫、ビキニ原爆実験に遭遇」
 「二十三名が原子病 一名は東大で重症と診断」
 国民は、寝耳に水の衝撃を受けたといってよい。遠い彼方の大洋での水爆実験が、他人事ではなく、九年前の広島、長崎の被爆経験を思い起こさせたのであった。核戦争の恐怖を感じていた国民は、大洋上での実験においてさえも、日常の被害を免れないことを知った。暗澹たる思いは、被爆国日本の国民の心に、瞬く間に広がったのである。
 第五福竜丸をガイガー計数管で調査すると、数十メートル離れた場所で、計器は、けたたましく鳴った。船体が放射能で強く汚染されていることは明らかであった。そればかりではない。船体が放射能に汚染されているということは、水揚げした魚も汚染されているということである。焼津港から出荷された魚類を、東京、大阪、金沢などで追跡調査すると、第五福竜丸以外の漁船から水揚げされた魚からも、次々に汚染魚が発見された。高い放射能は、体表のウロコの部分から検出された。
 全国の魚市場は、マグロを忌避し、全国の寿司店は恐慌に陥った。回収された焼津のマグロは、砂浜などに埋められた。
 ビキニ環礁の水爆実験に対する日本国民の憤激は、日を追って高まった。放射能の災害が足もとまで押し寄せてきたのである。核戦争を恐れて反戦の旗印を掲げていた人びとは、戦争がなくても、核実験の反覆が、今や地球上の人類の生存を脅かしていることを知らなければならなかった。被爆国民の神経は、極度に緊張したのである。
 第五福竜丸乗組員を治療するために医師団が結成され、三月二十八日には、これら急性放射能症の患者すべてを、東大付属病院と国立東京第一病院に収容した。
 厚生省公衆衛生局は、太平洋岸の塩釜、東京、三崎、清水、焼津の五つの港を指定し、南方海域から帰港する船は、この指定漁港で水揚げするように指示した。そして、水揚げされた魚の放射能検査を実施したのである。厚生省の調査では、これらの指定漁港で、一九五四年(昭和二十九年)十一月までに、廃棄魚を出した漁船は三百十二隻、その他の漁港で発見されたもの三百七十一隻、計六百八十三隻に達し、廃棄された魚は、四百五十七トンを数えている。魚の価格は暴落し続け、水産業界や飲食業界は大打撃を受けた。
 魚の放射能は、当初、体の表面から検知されるだけであったが、四月中旬ごろになると、内臓から高い放射能が検知されるようになった。また、汚染魚が捕れる海域も、赤道付近から北上して日本近海にまで広がったのである。最終的に、汚染魚は北緯四〇度以北、南緯二〇度以南でも発見された。放射性物質は、太平洋の西半分を汚したのである。
 海ばかりではなかった。空に撒かれた放射能灰は、対流圏ばかりでなく、数十キロ上空の成層圏にまで及んで、地球上の空を汚染し始めていることが判明した。

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