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日蓮大聖人・池田大作

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「青年の世紀」の栄光 突き進め! 広宣流布の最高峰へ

2002.7.19 随筆 新・人間革命5 (池田大作全集第133巻)

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1  「青年は革命の柱石です。青年は革命の成果の守り手であり、歴史をよりすばらしい世界へ向けて前進させる力でもあります」(「青年と革命」仁木ふみ子訳、『宋慶齢選集』所収、ドメス出版)
 これは、中国革命運動の指導者である孫文の妻・宋慶齢夫人の有名な言葉である。
 世界平和を使命とするわが学会も、いよいよ若々しき青年部が全責任を担う体制に入ってきた。
 広宣流布の黄金の使命と魂を、時代の炎を燃やしゆく青年部に譲り渡していく新しい世紀だ。輝きわたる若人の時代だ。
 信頼するわが真の弟子たる諸君の、戦い抜く汗と、使命を実現せんとする労苦で、夢に見てきた世界に初めて輝きわたる民衆の王国を、断固として築き上げていただきたいのだ。
 さらに、堅固にして雄大、雄大にして栄光、そして栄光にして常勝不滅の民衆の城を、いやまして大きく、栄えさせていってほしい。
 かの宋慶齢夫人は、次のようなエピソードを語り残している。
 ──孫文は、革命を成功させるためには、青年たちの熱情と支持とがなければ絶対に実現できないと痛感していた。
 ゆえに、孫文は、どんなに忙しくとも、群れをなして彼を訪ねてくる青年たちを、決して拒まなかった。だが、その一方で、事務繁多を理由に、年輩の人を、数時間、時には数日間も待たせてしまうことがあった。
 そんな”青年偏重”の対応を不服として、孫文に抗議した人がいた。
 「青年たちは若いし、待つ時間がある」と。
 すると孫文は、我々の革命を完成するのは青年だけであると断言し、毅然として言い放った。「年輩の指導者たちは年とともに消えてゆき、死んだり、動揺したりします。ただ青年たちだけが、決然として一切を克服できるのです」(同前、引用・参照)
 古くから頑張ってきた同志たちに対して、厳しい言葉かもしれない。だが、長い目で見れば、新しい世代への継承は、自然の流れでもある。
 三十年先、五十年先、いな百年先を真剣に考える、真の指導者ならば、絶対に青年を最も大切にし、最大に愛し、心からその活躍を見守っていくものだ。
2  あの戦時中、わが学会も荒れ狂う弾圧の火に襲われた。その時に、指導的立場にいる年輩の幹部らは師の牧口初代会長を裏切り、次々に退転していった。「牧口の野郎」などと、忘恩の罵声を吐き残していった人の心は恐ろしいものだ
 その無残な敗北者の姿に、牧口先生の弟子たる戸田先生は激怒した。
 保身の老兵など、絶対に信用するな!
 戦後の焼け野原に、ただ一人、決然と立った戸田先生は、若き革命児の出現を待っていた。その熱願の心境を託したのが、あの「同志の歌」である。
  捨つる命は 惜しまねど
  旗持つ若人 何処にか
  富士の高嶺を 知らざるか
  競うて来たれ 速やかに
 私たち若き弟子は、師の前で、幾たびともなく、この歌を歌った。
 師の瞳から、熱い涙がにじみ、こぼれていった。
 歌声に決意の音律が感じられないと、師は「そんな弱々しい声で広宣流布ができるか!」と、我ら青年に向かって烈火のごとく叱った。
 戸田先生は、自分と同じ使命と死を覚悟した広宣流布の闘士をつくり上げたかったのだ。
 ただただ、それが、この世の、そして永遠に消えることなき尊い魂魄であるからだ。
 あの中国革命に戦い、生き抜いた周恩来総理も、ある時、厳しく言い放った。
 「一番いい死に方は、人民を抑圧する者との戦いの中で、撃たれて死ぬことだ。しかし今は平時だ。だから人民のために働いて働いて、尽くして尽くし抜いて、命を消耗させていけば、立派に死ぬことができる」と。
3  あの忘れることのできない一九五一年(昭和二十六年)の七月十一日。
 雨であった。浦然として強い雨であった。この世で初めて出現する、真正の男子青年部の結成式である。
 西神田の小さい学会本部には、土砂降りのなか、約百八十人の決意の青年が集った。皆、生き生きとしていた。そこには、峻厳なほどの深い師弟と同志との連帯感がみなぎっていた。
 祝辞に立たれた我らの師・戸田先生は、開口一番、こう宣言された
 「今日、ことに集まられた諸君のなかから、必ずや次の創価学会会長が現れるであろう。必ずや、私は、このなかにおられることを信ずるのであります。その方に、私は深く最敬礼をしてお祝い申し上げたい」
 室内は厳粛な空気に包まれ、森々としていた。意外な、虚を衝いた挨拶であった。
 さらに、戸田先生は、指導の最後にも、「今日は、この席から、次の会長たるべき方にご挨拶申し上げ、男子部隊の結成を心からお祝い申し上げる」と、最敬礼され、深々と青年たちに頭を下げられたのであった
 それは、先生と私の、真の不二の師弟で行った結成式でもあった。
 この日、私は二十三歳。ちょうど現在のヤング男子部の諸君と同じ世代である。
 恩師が、固く、深く、青年を信じてくださったように、私も青年の勝利を信じる。
 二十一世紀の広宣流布の全権は、諸君の双肩にかかっているからだ。
 ゆえに青年よ! 一日一日がすべて、一つ一つの戦いがすべて、自身を磨き、鍛え、大指導者となるための訓練と知ってほしいのだ。
 わが師は、仕事がいい加減な青年を、絶対に信用されなかった。
 青年部員の大半は、零細企業に勤め、朝から晩まで汗にまみれる毎日であった。それでも早朝に出勤したり、夜中に職場に戻って働くなどして、必死に学会活動の時間をこじ開けた。仕事も、信心も、逃げなかった。
 その真剣な姿に、上司も、同僚も、やがて信頼を寄せてくれるようになった。
 会合に向かう時は、開始時刻が迫ると、「遅れてなるものか!」と、誰もが自然に駆け足になった。遅れた分だけ、学会の怒涛の前進から外れ、師匠との呼吸がずれてしまうように感じていたからだ。
 いかに大変であっても、要領よく楽をしたいとは、誰も思わなかった。
 それは、この一度しかない青春時代を、偉大なる師匠と共に、広宣流布の使命に生き抜けることを、最高の誇りとしていたからだ。

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