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日蓮大聖人・池田大作

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「関ケ原決戦」四百年 燃えよ中部 創価の世紀を拓け!

2000.6.17 随筆 新・人間革命3 (池田大作全集第131巻)

前後
1  雨が日本列島に、しとしと降っている最中、一大ニュースが稲妻のごとく走り回った。
 それは、韓・朝鮮半島の平和的統一に向かっての、歴史的な南北首脳会談であった。新しい時代が、また回転し始めた。
 日本列島にも、新しいラッパが鳴り始めている。そしてまた、今世紀の最後のラッパが、旧き時代よ、さようならと鳴り始めている。
 わが中部の天地には、長い時間と年月、極悪の嵐が、吹き荒れていた。
 しかし、わが友は、新緑の五月のような生き生きとした、爽やかな笑顔と甲高い笑い声を交わしながら、行進している。
 そして、楽しき余韻のある、中部の朝明けの鐘が鳴り響いている。中部は断じて勝ったのだ。
 多くの思想や団体が退潮していくなか、中部は、高らかに二十一世紀を祝福していくがごとく、偉大なる進歩と変化の天地となった。
 中部の英雄の彼らは、野蛮な罵声に勝った。
 狡賢い陰謀に勝った。
 中傷非難の恫喝に、はつらつとして勝った。
 そこには、絶対に悲しみのない、常楽我浄の実像が出来上がった。
 我らは、冷酷な仕打ちにも負けない。我らには、絶望もない。下劣なドブネズミのような連中に対する憤怒もない。いかに攻撃非難されようとも、悲嘆などない。
 我らの心は、晴れ晴れとしている。我ら創価の陣列は、″遂に来れり、二十一世紀よ″と燃え立つ、栄光の行進なのである。
 仏菩薩が厳然と護りゆく、勇気に満ち満ちた同志の声に包まれたスクラムなのである。
2  古来、中部は、軍事・交通上の要衝であった。
 幾度となく、日本の行く末を左右する、歴史転換の舞台ともなってきた。
 特に、今年は、天下分け目の決戦となった、有名な「関ケ原の戦い」から、ちょうど四百年にあたる。
 慶長五年(一六〇〇年)九月十五日――この日、徳川家康が率いる東軍と、石田三成を参謀とする西軍とが、天下の帰趨をめぐって戦ったのであった。
 現在の岐阜・不破郡関ケ原町に、その古戦場はある。なお、日目上人ゆかりの垂井は、すぐ隣町である。
 私も一九八九年(平成元年)の四月、雄々しき中部・岐阜の同志にお会いするため、垂井にある平和講堂を訪れた折、関ケ原の古戦場に立ち寄った。
 なだらかな山に囲まれた、麦畑の広がる一角に、戦跡の記念碑が立っていた。
 静寂の底から、どよめくような武士たちの鬨の声が聞こえてくる気がした。
3  「関ケ原の決戦」の勝敗は、わずか一日で決した。
 勝者・家康は、二百六十余年続く江戸幕府を開き、敗軍の将・三成は処刑になる。
 戦いは厳しい。人生の戦いであれ、広布の戦いであれ、断固として、勝たねばならない。
 ともあれ、関ケ原の勝敗の分かれ目は何であったか。
 私も、戸田先生と、よく語り合ったものだ。
 戦略や戦術など、さまざまな議論があるが、″人間学″″将軍学″として見る時、決戦の指揮をとった指導者の力量というものを考えずにはいられない。
 ことに、山岡荘八氏の有名な長編時代小説『徳川家康』等に描かれる、家康の人格の大きさは印象深い。
 ところで、山岡氏といえば、私は、少年雑誌の編集長をしていたころから交流があり、よく原稿を書いていただいたものだ。
 私が会長に就任してからも、聖教新聞で小説「高杉晋作」を連載してくださった。
 氏は常に、「人間革命」の必要性も訴えておられた。
 「地上から戦争を無くするためには、いったいどのような処方によって、どのような人間革命が必要なのか」(『随想 徳川家康』講談社)――そういう深い展望を描きながら、あの長編を綴っておられたわけである。

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