Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

初期アーリア人の社会  

「内なる世界 インドと日本」カラン・シン(池田大作全集第109巻)

前後
1  池田 インダス文明を担った人々の宗教がいかなるものであったかについては、今のところ明らかではありませんが、西暦前一五〇〇年ごろより西北インドに侵入し、その後、ガンジス川の下流域に東漸し定着していったアーリア人の宗教については、彼らが遺したおびただしい文献により、あるていどは知ることができるように思います。
 一説に西暦前一一〇〇年ごろを中心に成立したとされた『リグ・ヴェーダ』に始まるヴェーダ群から、西暦前五〇〇年ごろを中心に成立する古代ウパニシャッドにいたるまで、古代アーリア人はじつに多くの宗教文献を成立させましたが、それらが現代にまで、ほとんど完璧と思われる形で伝えられてきている姿を見るとき、インド文化の伝統の厚みと深さに驚嘆せずにいられません。
 カラン・シン ヴェーダ文明の年代に関しては、アーリア民族の侵入を西暦前一五〇〇年ごろと正式に認めることはできないことを指摘しておきたいと思います。これは複雑な問題で、少なくともそれより二千年は早かったという説もあります。
2  池田 そうですね。いろいろな説があるようです。
 ところで、日本の一部の学者が指摘するところによれば、これら古代アーリア人の宗教文献を通して、ある明瞭な特色があるということです。それは、これらの文献を見るかぎりにおいて、古代アーリア人には部族的、民族的信仰が見られないことです。
 一般に、人間の精神の発展のうえからいえば、世界のどの地域にあっても、まず血族・氏族の神を崇め、その神を中心に氏族・部族の精神的結合をはかるような原始宗教が現れるのですが、古代インドにおいては、最古の文献『リグ・ヴェーダ』においてさえ、絢爛たる多神教信仰が最初から出現したように見受けられるというのです。
 もちろん、初期のインド・アーリア人にも部族というものがなかったわけではないでしょう。『リグ・ヴェーダ』に代表される初期ヴェーダ文献を見ると、初期アーリア人が多数の部族に分かれ、それぞれの族長が“王”と自称していたことがうかがわれます。
 そして王は側近に、廷臣とグラマー・ニー(氏族あるいは部族の長)とをもち、軍事面ではセーナー・ニー(将軍)に助けられ、宗教的儀式に関しては、プローヒタ(王室付き司祭官)がいて、戦勝の祈願などを行ったようです。
 また、祭礼については、これを専門とする祭官に命じて執行させ、その報酬として牛などの財宝を与えたとされています。
 一般的な宗教史では、王と祭官とが一体で祭政一致的な部族信仰が最初に開花し、その後に役割が分離されるという過程が進行するようですが、初期アーリア人の部族においては、部族の長たる王と、宗教的儀式たる祭礼をつかさどる祭官との役割がはっきり分離されていたように思われます。
 ここに、のちに、祭官階級たるバラモンが圧倒的な特権をもってカーストの最上の位置を占めることになる大きな要因があったように思われますが、それはともかく、多数の部族に分かれていた初期アーリア人の部族的信仰の時代がないように見えるのは、それを示す文献が現在のところないためによるのか、または、アーリア人の宗教の本質的な特徴からきているのか、さらにまたは、アーリア人がインド侵入後、ガンジス川流域への東漸運動に忙しかったためによるのか、それとも、他の理由によるのか、博士はどのようにお考えになりますか。
3  カラン・シン アーリア民族が、さまざまな氏族や部族に分裂していたにもかかわらず、全体としてはさまざまな神々の崇拝や拝火信仰に由来する神格化された自然の諸力の崇拝を中心とする、一つの強力な信仰によってたがいに結ばれていたという事実を認識するならば、部族信仰という段階が見られないのはなぜかという、あなたが提起された点への回答となるでしょう。
 世界の多くの地域の人類史とは違って、アーリア民族には、外界に表れたあらゆる偉大な諸力――太陽・月・風海岸山岳――は、それと同じものが人間の心の中にもあるということ、そして事実それらは単一の、すべてを貫く神的な力が顕現したものであるという認識が最初からあったというところに、彼らの天賦の才を認めることができます。アーリア文明に最大の力と活力をもたらし、また各部族がみずからの神の優越性を主張して起こすような宗教上の紛争を防いだものこそ、あらゆる存在が一体であるという、この認識だったのです。
 あなたが正しく述べておられるとおり、王・戦士と祭官の役割は、アーリア文化の初期の段階からはっきりと分化されていました。だからといって、祭官が智慧を独占していたというわけではありません。『ウパニシャッド』の中には、バラモンが精神的な指導を求めて支配階級のクシャトリアのもとへ行く話がいくつか見られます。しかし日常生活においては、アーリア人の拝火儀式をつかさどる祭官と、部族の守護・拡大を任務とする王・戦士とは別個でありながら、しかもたがいに結びついて創造的な共生を営んでいたのです。

1
1