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日蓮大聖人・池田大作

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「環境・開発国連」構想  

「平和への選択」ヨハン・ガルトゥング(池田大作全集第104巻)

前後
1  池田 かつて博士は日本でのセミナーにおいて、国連を上院と下院の二院制にして、上院は現在の「国連総会」のように一国一票制、下院としての「国連人民総会」(UNPA)は人口比にしてはどうかという、たいへん興味深い国連改革案を提示しておられます。
 国連が誕生してまもなく五十年。国連創設時と現在とでは、地球を取り巻く状況が大きく変わっています。国連を創設した人々の発想のなかには、現在のような地球的問題群への意識は弱く、環境問題も主要課題にはなっていませんでした。
 地球的問題群に効果的な対応をするには、現在の経済社会理事会とそれに連なる貿易開発会議、環境計画、人口基金、開発計画などの諸機関の体制では十分とはいえません。むしろこのさい、平和維持機能を担う国連を「安全保障国連」とし、環境・経済・開発・人口・食料・人権問題など地球的諸問題を担当する国連を「環境・開発国連」とし、国連を二つの独立した機関にすることにより、抜本的強化をはかる案も検討に値するでしょう。
 現在の国連機関の予算、人員の七割は、発展途上国への開発援助や人道的活動にあてられており、「環境・開発国連」の構想は、時代の要請といえましょう。
 既存の経済社会理事会の再編強化ではなく、発展的に新しい機構の創設を提案する理由は、これを国際的な意思決定を下せる強力な国際機構にしたいからです。地球的問題群に柔軟かつ的確に対応しうる新たな機関を創設するというアイデアをどう思われますか。
 ガルトゥング 私は、国連のあらゆる非軍事的能力を強化することには大いに賛成ですので、国連を「開発」と「環境保護」のためのよりよい機関にするという考え方は、歓迎します。しかし、あなたが提案されたような、二つの独立した機関を作ることがよい考えであるとはどうも思えないのです。それら二つの機関が成功するかどうかは、二つが互いにどこまで独立を保つかによって決まるでしょう。
 この考え方に賛同的な論議もあります。それは、“国連のハードな面をソフトな面から分離する、すなわち、安全保障の機関という懲罰も辞さない厳父の側面を、開発や環境の機関という優しい慈母の側面から分離するのがよいのかもしれない”というものです。そしてハードな部分の活動の責任を、ソフトな部分に負わせることはできないというのです。(同様の主張が、かつて国家と教会の分離を正当化するためになされたことがあります)
 しかし“国連はやがて世界統治センターになるであろうから、そこに一切を集結させておくべきだ”という考え方のほうが、さらに有力であるように思われます。“全体論”(ホリズム)から見た国連について、また、世界中のいかなる問題にも判断を下すことを許されているばかりか奨励されてもいる国連総会について、そしてまた、事実上すべての事柄をあつかっている国連の諸機関については、多くの議論が成り立ちます。ときには共同活動が必要な場合もあります。平和維持活動は、その一例です。環境面の大災害――とくに水不足からくる大災害――が襲ってくるであろう来世紀には、そのような活動はますます頻度が高まるでしょう。
 私は、国連事務総長を中心にして適切な数の有能な事務次長がその周りにいて、これら事務次長が、それぞれ国連全体のシステムの主要な各側面に責任をもつ、という形にしたほうがよいと思っています。国連のソフトな面の機能も、ハードな面と無関係でいるのではなく、ハードな面の機能をもはや余分で不必要なものにしてしまうよう、予防的に活用されるべきです。
 しかしながら、ここでとりあえず付言しておきたいことがあります。それは、国連には“全体論”を実践する能力がある程度あるにもかかわらず、今のところその能力をほとんど発揮していないということです。一つの個人的な逸話をお話しして、私が何を言わんとしているかの説明といたしましょう。
 それは一九七〇年代のことでした。ちょうどアメリカはベトナム戦争の結果、またソ連は強制労働収容所(グーラグ)が明るみに出て、両超大国の威光に陰りがさす一方、他方では第三世界が華々しく国連等で声を高めている時代でした(ただしアメリカに関する限り、レーガン・ブッシュ時代にふたたび国連等での支配力を回復しました)。私は当時アドバイザーやコンサルタントとして、いくつかの国連機関の仕事をしていました。一九七五年から七六年にかけては、UNCTAD(国連貿易開発会議)で技術移転の理論の研究に、また、WHO(世界保健機関)で精神分裂症の国際的な研究に従事しました。このどちらの機関もジュネーブにありますが、WHOやUNCTADには駐車用のスペースが十分にありません。私は、両機関の間を迅速に移動するため、パレ・デ・ナシオン(国連欧州本部)の隣にあるUNCTADの建物から二、三キロ離れたWHOの建物へ、たやすく駐車できるスクーターで往復していました。
 UNCTADのほうでは、できれば第三世界が経済的コストを負担しないで、第一世界から第三世界へ技術移転をほとんど制約なしで行うのが望ましいと考えていました。一方、WHOの主な関心事は、経済的コストではなく、精神衛生上のコストでした。なぜなら、技術開発が進んだ国々では、そうでない国々に比べて精神分裂症の発病率が少なくとも十倍は高く、病気自体もより重症で、より長期にわたっているからです。
 私のスクーターは、テクノロジーとしては別にだれにも強い印象を与えませんでしたが、このスクーターが、コストについての二つの異なる解釈の間をつなぐ、唯一の接点となっていたのです。国連の諸機関相互の孤立化は、今日もなおつづいています。
 多角化はたしかによいことです。しかし、各機関相互の調整が不十分であると、そうした多角化を有利に活かしうるよき対話は生まれないのではないかと思います。
2  池田 国連の改革案は、現在、さまざまに論議されています。事務総長が提案し、国連内十四カ国委員会で抜本的改革案が検討中だとも聞いております。
 今後そうした内容が徐々に明らかにされていくでしょうが、環境と開発の問題に関していえば、見通しはあまり明るくはないようです。一九九二年の、ブラジルのリオデジャネイロ市で開かれた「地球サミット」(UNCED)の成果として、国連は「政策調整・持続的開発局」を新設し、その下に「持続可能な開発委員会」を設置して、これからの地球環境問題を担当することになりました。
 すべてはこれからですが、各国とも地球サミットで決まったことを具体化するのはたいへんなことです。地球環境問題の処方箋「アジェンダ21」の具体化も、どこから手をつければよいのか困っているようですし、膨大な環境問題のむずかしさといえましょう。
 なかでも世界的な経済不況が対策の足を引っ張り、環境保護への熱意に冷水をかぶせています。国連としてもよほど思い切った発想でいかないと、地球的環境保全は進まない恐れがあります。
 博士が指摘しておられる「世界統治センター」に一切の物事を集結させる提案には私も賛成ですが、問題はそこに進むプロセスにあります。
 過日、グローバル・ガバナンス委員会のピーター・ハンセン専務理事が創価学会本部を訪ね、意見交換をしました。地球統治に関する独立委員会は、地球的な新しいシステムの構築とともに、地球的価値の確立をめざしており、この面で創価学会インタナショナルがなんらかの貢献ができるのではないかと期待している、とのことでした。
 さらに冷戦の終わりとともに、安全保障の概念は、外国の侵略に対する国家の安全という狭いものから、環境破壊、経済的格差と不安定性の拡大などに対する安全を含む幅広いものへと拡大されつつあるとの「地球安全保障」の概念を打ち出しています。
 こうした地球的価値や地球安全保障などの概念にどう具体的な形を与えていくのか、私どももグローバル・ガバナンス委員会の今後の提案に注目しています。
 ガルトゥング 私はかつて、グローバル・ガバナンス委員会のために草案文書を作成するという栄誉を担いました。その中で私は、人口百万人につき一人の、できれば直接選挙で選ばれた代表から成る「国連人民総会」(UNPA)についても、また、脱国家的(トランスナショナル)な世界企業を代表する「国連企業総会」(UNCA)についても、詳細にわたって提唱しました。「国連総会」「国連人民総会」「国連企業総会」のうちの二者が、さらには三者が、対話を行えば全世界が恩恵を蒙ることになるでしょう。国連の現状は、あまりにも各国政府だけのショーになりすぎています。今後は、国家、企業、市民社会が一体となって、国連を運営していくことが必要です。

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