Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

各部代表との協議会 「真剣の一人」にかなう者なし

1993.10.10 スピーチ(1993.6〜)(池田大作全集第83巻)

前後
1  日寛上人の御臨終「生も歓喜、死も歓喜」を御実証
 先日(九月二十四日)、米・ハーバード大学で講演をした(二回目。「二十一世紀文明と大乗仏教」)。その核心の一つは、「生も歓喜、死も歓喜」という大乗仏教の真髄の生死観である。
 現在、日寛上人御書写の御本尊が授与されているが、日寛上人の御臨終は、そうした「妙法の生死」の模範の御姿であられた。大変有名な話であるが、最近は知らない人も多いようなので、ここで少々、紹介しておきたい。
2  日寛上人は、亡くなる年(一七二六年=享保十一年)の春、江戸で「観心本尊抄」を講義された。講義を終えるとき、たわむれのように、こう言われた。
 「かの羅什三蔵は、舌が(火葬にしても)焼けなかった(法華経はじめ経典の訳が正しかったため)。その故事にちなみ、いま日寛もひとつ言い残すことがある。
 すなわち、日ごろから好む蕎麦を(私の)臨終のときに食べ、唱題のうちに臨終するであろう。
 こう言っておくことが、その通りにならないときは、私の言も信ずるに足りない。
 しかし、もしも、この通りになったならば、日寛の語りし法門は、宗祖大聖人の御心に寸分も異ならないと知っていただきたい」
 こう一同に言われて、観心本尊抄の講義を終えられた。
 夏ごろから少しずつ弱られたが、病の苦しみは少しもなかった。
 そして、こつこつと蓄えられた二百両を、広布のあかつきのために遺贈された。
 また、地方の貧しい寺から本山へ来る僧のために、百両の支度金を遺された。
 これは「朝夕麤衣麤食そいそしょく(粗末な服と食事)にして万事倹約を加え」て蓄えられた貴重なお金であった。
 末寺の後輩が困らないよう、一種の「基金」として遺された、慈悲のこがねであった。
 さらに「五重之塔」の建立のため五十両を遺された。(二十三年後に完成。後に創価学会が修復)
 その他、一つ一つ、後々のことまで指示され、門下の一人一人について、面倒をみてくれるよう託し、万般の配慮をなされた。
3  遷化せんげの二日前、各所にいとまごいに回られた。正装し、駕籠かごに乗られて──。悠々たる御境涯であった。
 八月十八日の深夜、床の間に御本尊を掛け奉り、「もなく死すべし」と告げられた。
 そして、臨終と死後のことについて、細かく指示されたあと、紙と硯を取り寄せられ、漢詩と和歌をしたためられた。
  「本地の水風すいふう
   凡聖ぼんしょう常に同じ
   境智きょうちたがいくん
   朗然ろうねんとしておわりのぞむ」
 (久遠元初くおんがんじょの本地に立ち返ってみれば、凡夫も聖人<仏>も、地水火風空の五大は常に同じであり、ともに妙法五字の当体である。
 境と智は冥合みょうごうし、今、晴れ晴れと臨終を迎える)
 和歌のほうは、「末の世に咲くは 色香は及ばねど 種はむかしに替らざりけり」(末法であるから、凡夫の身で、花にたとえれば色も香りも、昔におよばない。しかし、その仏の種は、久遠元初の昔と、色も香りも変わらない妙法五字である)──。
 こう書き終わると、ただちに蕎麦そばを作るよう頼まれた。
 そして七はしし上がった。
 それから、にっこりと笑みを浮かべて、「ああ面白きかな、寂光の都は」と最後の一言を述べられた。
 その後、「うがい」をして御本尊に向かわれ、一心に唱題された。
 そして、十九日の朝、半眼半口はんがんはんくにして、眠るがごとく、遷化せんげなされたのである(満六十一歳)。

1
1