Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

第九章 「生死」こそ最後のフ…  

「宇宙と仏法を語る」(池田大作全集第10巻)

前後
1  「難波」とは“太陽を迎える場所”の意
 ―― きょうは、大阪の地でお話をうかがうことになりました。
 この大阪も、昔からたいへんに宇宙とは関係ぶかい土地柄のようですが。
 池田 そうです。古代から、大阪が「難波」と呼ばれていたのは、よく知られていますね。
 木口 ええ、私も大阪生まれですので……。
 池田 この「難波」という言葉は、もともとは、「ナルニハ」と呼ばれていた。
 それが、時代を経るにしたがい、「ナニハ」と約めて言われるようになった、といわれているようです。
 木口 なるほど。そうしますと、最初の「ナルニハ」とは、どういう意味だったのでしょうか。
 池田 私も若いころから、この大阪の地とはたいへんに縁がありまして、常々、関心をもっていました。
 最近、ある研究書を見ておりましたら、「難波」とは古代朝鮮語から生まれた、という記述があります。
 そこで、さらに調べてみますと、「難波」のもとの言葉「ナルニハ」の「ナル」とは、「太陽」を意味する言葉とありました。
 木口 ああ、そうですか。知りませんでした。
 たしかに関西圏には、昔から朝鮮半島の人たちが多く渡来し、住みついたことは事実のようです。
 私も、日本の古代文化に、そうした人々が大きな影響を与えていたことは、知ってはいましたが。
 ―― 「ナル」が太陽ということになりますと、「ニハ」とは、どういう意味になるのでしょうか。
 池田 「ナルニハ」で、「太陽を迎える場所」という意味になるようです。
 木口 なるほど、なるほど。
 「難波」という言葉の成り立ちが、そのような由来だったとは、まったく知りませんでした。
 大阪には、「西成」とか「東成」という区名があります。昔は、この「ナリ」を「ナル」と呼んでいたと聞いたことがあります。そうしますと、これも、池田先生が話された言葉の名残なのでしょうか。
 池田 そのとおりです。
 「ナリ」という言い方は「ナル」がなまったもので、「西成」とは、夕日が沈んでいく場所です。
 また「東成」は、朝日が昇る場所、ということになるのでしょうか。
 木口 大阪の地が、古代から「太陽を迎える」という、雄大な気概に燃えていた土地であったということは、素晴らしいことですね。
 ―― いまの、関西の創価学園(中学・高校)がある交野市の近辺が、そうした関西文化圏の中心地だった、と『日本書紀』(奈良時代に完成したわが国最古の正史)などにはありますね。
 池田 そうですね。古代の、有力な豪族としてよく知られている、物部氏(大和朝廷時代の大豪族)の一族が、当時の交野郡を本籍としていたことは、たいへんに有名な伝説になっている。また一族は、淀川を下り、海から「難波」に上陸したようです。そして生駒山麓に根拠地を構え、一大文化圏を築き上げてきたようですね。
 それが、東征してきた天皇家に引き継がれていく、という説もありますね。
 木口 そうだとすると、まさに、日本文化のひとつのルーツですね。
 ―― こうした、いわれのある地名は、日本の各地にもあるようですが。
 池田 ええ、いまの宮崎県の旧国名「日向」も、そうですね。
 木口 これなど、文字どおり「日が向かう」そのものですね。
 池田 そうです。「ひゅうが」は、もともと「日向」といわれ、日が向かうところ、夕日の隠れるところ、という意味です。
 これに対し宮城県に、昔、「日高見」という地名があったそうですね。詳しくは知らないのですが……。
 いまの仙台平野あたりをさすようです。日が昇る方向という意味で、この名称がつけられたとうかがったことがあります。
 ―― 私も、そういう古文書を読んだことがあります。
 「北上川」は「日高見」から由来し、仙台平野には、「日高見」という神社が現存しているそうですね。
 池田 当時の大和朝廷からみると、東北方面はまだ「エゾ」と呼ばれていたのではないでしょうか。
 ですから、都からみて、東の涯を「日高見」といい、西の涯を「日向」としてなぞらえたような気がしますが。
 木口 なるほど。地名の起こりにも、太陽そして宇宙との関係が、密接になっているものがあるわけですね。
2  “生命の触発”が教育の原点
 ―― 昨日(一九八三年九月二十二日)は、あの有名な峰つづく交野にある、関西創価学園の開校満十年を迎えた式典に、創立者である名誉会長は出席されてましたね。
 池田 ええ、半年ぶりでした。
 ―― じつは、私も一度、名誉会長と生徒たちの交流を、じかに拝見したいと思って、ちょっと、その光景を見せていただきました。(笑い)
 木口 いかがでしたか。
 ―― まあ、強烈なカルチャー・ショックでしたね。(笑い)
 木口 そうでしたか。
 ―― ともかく、その前日の関西小学校では、六百人以上もいたでしょうか、児童たちが創立者のまわりで、目を輝かせながら、小さな身体に喜びをいっぱいはずませていました。
 そして、自由奔放に走りまわっている。
 いわば、子供の生命が次々に爆発しているようで、まあ、一時間半ぐらいだったのですが、見ているだけで疲れました(笑い)。これは、その場にいた人でなければわかりませんが。(笑い)
 木口 そうでしたか。
 かつて、池田先生が「幼児とはあまり断絶を感じない」と書かれていたのを、読んだことがありますが、目に浮かぶようですね。
 ―― ちょっと近年、私は見たことのない光景でした。
 名誉会長は、あの、ほとばしるような歓声と小さな生命の躍動のウズに、溶けこまれていました。
 池田 必ず行くという約束をしてしまいましたもので……。私は、子供たちとの約束は絶対に果たさなければならない、と常に思っています。
 木口 簡単なことのようですが、なかなかできない大切なことですね。
 池田 生まれながらの、無垢で幼い子供の動作には、珠玉のような輝きが五体を駆けめぐっているものです。
 ですから、そうしたものと触れ合うことは、それをいつのまにか忘れてしまった大人たちに、自分にも純粋な子供のころがあった、と気づかせずにはおかないものです。
 木口 なるほど。だが残念なことに、子供の心になにも感じなくなった大人が、だんだん増えている。
 ―― そのとおりです。
 先般もある調査で、「子供の教育に自信を失った」お母さん方が、五〇パーセントを超えるという結果が発表されていた。
 生命と生命の触発という「教育」の原点を見失い、育ちゆく子供の姿をまえにして、親が戸惑っていることを強く感じますね。
 木口 多くの人が、教育が大事なことを口にはしますが、言うはやすく、行うは難しですね。
 ―― 私も耳の痛い一人ですが(笑い)、まったくそうですね。
 池田 子供はなんの容赦もなく、育ちゆくものです。この一点を、大人は忘れてはならない。
 ―― そうですね。子供は大人の後ろ姿を見て育つといいますが、大人のほうにも、常になにかしら向上していくものがなければなりませんね。
 木口 私にはまだ子供がいないのですが、そのとおりだと思います。学園では、いかがでしたか。
 ―― 野外グラウンドで、全校の生徒、先生たち、約千六百人と聞きましたが、さわやかな秋空のもとで、名誉会長と一緒に、ともにジュースで乾杯し、弁当をとりながら歓談しているのを、高い丘から見ておりました。
 ともに語らいながら、楽しげに箸を上げ下ろしする姿に、壮大な、なんともいえないリズムを感じ、胸を強くうたれました。
 木口 私も教育者の一人ですが、たしかに子供の生命と共鳴するような指導者は、少ないと思います。
 池田 私も、波瀾万丈の半生を送ってきました。またそれこそ、数えきれないほどの多くの人々との出会いがあった。
 しかし、そのなかでも小学校時代に教わった先生のことは、忘れられません。
 それほど、子供の瞳には、自らを教え、自らを育んでくれた尊い姿というものが、長く心に焼きついているものなのでしょうか。
 私の恩師、戸田(城聖)先生も、教育者でした。
 その恩師が身をもって、教育の大切さを教えてくれた。私もまた、私なりにそれを受け継いでいる、ともいえるのかもしれませんが……。
 木口 なるほど。よくわかります。
3  宇宙と歴史と大自然との融和
 ―― 夕方六時ごろからは学園で、「交野・秋の夕べ」の催しがありましてね。
 木口 そうですか。昨夜ですと、ちょうど十六夜の月だったと思いますが。
 池田 ええ、見事な「大月天子」との出会いとなりました。
 ―― 六百メートルもの高さの峰々を皓々と照らしながらの満月は、生まれて初めて見ました。
 はるか万葉の時代を思わせるがごとき、あのような月の光景は、一生涯で何度も見ることはできないでしょう。
 池田 そうですね……。ともかく見事な満月でした。文学的にいえば(笑い)、古の万葉、白鳳の峰々の波が、現在と過去のへだたりを瞬間的に乗り越え、悠久の詩情をただよわせた演出であった、といってよいかもしれない。
 それは、宇宙と歴史と大自然とが、完璧なまでに一つに融和した、別世界のような絶妙の時空であった、といえるでしょう。
 ―― 私も端のほうにおりましたが、まったくそのとおりでしたね。あたりにはススキや萩も見え、自分も詩人であったらな、と思いました。(爆笑)
 池田 十六夜の月とはよくいったもので、たしかに、山の端をたどり、美女が美しい顔を恥ずかしそうにまた、優雅に見せていくような姿でしたね。
 ―― 学園の寮生も、地元の交野の方々も、本当に心から喜んで拍手していましたね。
 池田 ええ、学園には寮生、下宿生たちが三百数十人おります。
 故郷を離れ、父母から離れ、勉学に勤しんでいる生徒たちに、少しでも一緒に楽しみ、思い出をつくらせてあげたいという気持ちでやりました。
 まえにも、こうした「月見の宴」をやったのですが、なにぶん多忙なため、今回は十年ぶりだったのです。
 木口 ああ、そうですか。
 本当に、素晴らしいことですね。月も喜んでいたことでしょう。(笑い)
 ―― そこで、満月が昇ったあの山の端は、『古事記』(現存する日本最古の歴史書)や『日本書紀』に出てくる「竜王山」といわれているようですね。
 池田 ええ、学園の先生方からそう説明をうけました。
 この山頂に、物部氏の先祖が降臨したという伝説があるそうです。
 ―― ええ、たしか『旧事本紀』という文献の「天孫本記」にも、「河内国河上哮峰」に「磐船」に乗って降臨したとあります。それがいまの学園のある交野のあたりだ、というのが研究者の間では通説になっているようです。
 池田 私も、そのようにうかがっている。たしかに学園の近くには「磐船」という地名が、いまでも残っているようです。
 最近、その竜王山の裏のほうで、小学生が偶然に五~六世紀ごろの古墳群を発見した、ということも聞きました。
 ―― 天皇家は、この地で独自の文化を築いていた物部氏から、太陽信仰と同時に、天孫降臨の伝説も受け継いだのでしょうか。
 木口 なるほど。そういうことも考えられますね。つまり交野は、古代日本の文化揺籃の地であったわけですね。
 池田 そうです。ですから平安時代になっても、桓武天皇が交野の一角に離宮をつくったりしている。
 また大宮人が観桜、観月、観楓の宴をはる地であったともいわれていますね。
 木口 いまでも交野近辺には、「天野川」という川が流れています。また、「星田」という地名も残っています。なにか太陽とか、星とかに所縁のある土地柄だったんでしょうかね。
 ―― 興味ぶかいことですね。そういえば、業平が交野でつくったといわれる和歌がありますね。
 池田 ええ、『古今和歌集』(勅撰和歌集のはじまり。九〇五年または九一四年ごろ成る)に載っています。
 「飽かなくに
 まだきも月の隠るるか
 山の端にげて入れずもあらなむ」
 この和歌は、歌人業平が惟喬皇子の供をして交野にきたとき、詠んだものですね。
 ―― 昨夜の月は十六夜ですが、そのあとの月も、風流な呼び方をされていますね。
 池田 ええ、立待月、居待月、臥待月といわれるように、月の出の時間によって、それを眺める姿と見合った名がついています。
 木口 そうですね。

1
1