Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第15巻 「開花」 開花

小説「新・人間革命」

前後
1  開花(1)
 思想、哲学は、行動となって開花されなければならない。
 「大河の時代」を迎えた創価学会は、一九七一年(昭和四十六年)「文化の年」に入ると、新たなる人間文化の創造という、広宣流布の大海に向かって、滔々たる流れを広げていった。
 その水面には、民衆の歓喜の波が躍っていた。
 山本伸一は、この堂々たる創価の″大河″を思うたびに、源流を開いた殉難の先師牧口常三郎への、強い感謝の念が込み上げた。
 七一年の六月六日は、その牧口の生誕百年にあたっていた。
 四月には、牧口の創価教育学を基調とする創価大学が開学し、初代会長の教育構想は、第三代会長の伸一の手で、着々と実現されつつあった。
 この六月六日には、伸一の提案で、生誕百年を記念し、牧口の胸像の除幕式が、東京・信濃町の聖教新聞社で行われた。
 牧口の孫にあたる蓉子が、広間に置かれた胸像の白布を取り除くと、台座を含め、高さ一・七メートルのブロンズ像が現れた。
 伸一は、その胸像をじっと見つめながら、先師の死身弘法の大闘争をしのんだ。
 牧口は、日本が軍国主義の泥沼に突き進む時代のなかで、民衆の崩れざる幸福を願い、広宣流布の戦いを起こした。
 誤った思想、宗教は人間を不幸にする。正法に目覚め、大善生活を送れ――というのが、牧口の叫びであった。
 正義によって立つ彼の批判は、国家神道にも、容赦なく向けられた。
 しかし、思想統制を行い、国家神道を精神の支柱にして戦争を遂行する軍部権力が、それを許すはずがなかった。
 四三年(同十八年)の七月六日には、会長の牧口常三郎、理事長の戸田城聖が拘束され、最終的に逮捕者は幹部二十一人に上ったのである。
 だが、牧口は屈しなかった。取り調べに際しても、国家神道の間違いを鋭く指摘し、日蓮仏法の正義を厳然と叫び抜いた。
 戦時下の獄中生活は、高齢の牧口の体をいたく苛んだ。満足な栄養もとれず、冬ともなれば氷を割って、顔を洗わねばならぬ毎日である。
 そのなかで、三男の蓉三が戦地で病死したことを知るのであった。
2  開花(2)
 一九四四年(昭和十九年)の十月十三日、牧口常三郎は東京拘置所で、現存する手紙としては、最後となる便りを書いた。そこには、こう記されている。
 「百年前、及ビ真後ノ学者共ガ、望ンデ、手ヲ着ケナイ『価値論』ヲ私ガ著ハシ、而カモ上ハ法華経ノ信仰二結ビツケ、下、数千人二実証シタノヲ見テ、自分ナガラ驚イテ居ル。
 コレ故、三障四魔ガ紛起スルノハ当然デ、経文通リデス」
 文面には、獄中にありながらも悠々とした、彼の境地がよく表れている。だが、その体は、栄養失調と老衰によって日を追って弱っていった。
 拘置所の係官は、何度も牧口に、病監に移るように勧めたが、彼は辞退し続けた。
 しかし、遂に十一月十七日、自ら病監に移ることを申し出たのである。そして、衣服、頭髪を整え、午後三時ごろ、歩いて病監へ向かった。
 牧口の体は、立っていることさえ難しいほど、衰弱していた。
 同行の係官が、手を貸そうとすると、彼は丁重に断った。
 何度も転びそうになりながらも、自ら廊下を歩いていった。
 それは、″権力の助けは借りぬ″という、孤高な意志の表れでもあったのであろう。
 病監に移って、ほどなく、牧口は危篤状態となった。
 夕刻、牧口の自宅に「危篤」を告げる電報が届いた。家にいたのは、亡くなった三男・蓉三の妻・貞枝だけであった。
 彼女は、取るものも取りあえず、拘置所に駆けつけた。
 病監といっても、狭い独房にべッドが一つ置かれているだけであった。
 昏睡状態の牧口は、すやすやと、安らかに眠っているように見えた。
 貞枝は、その夜は家に帰った。
 翌十八日の午前六時過ぎ、牧口は息を引き取ったのである。享年、七十三歳であった。
 彼の遺体は、貞枝の実家の履物店に勤める従業員に背負われて、目白の自宅に帰った。
 葬儀に訪れたのは、指折り数えるほどの人たちであった。
 凶暴な権力への恐怖が、臆病な忘恩の弟子を引き離したのである。
 苦難は人間を淘汰し、ニセモノを暴き出す。
3  開花(3)
 牧口常三郎が推進した創価教育学会の運動は、日蓮仏法をもって、人びとの実生活上に最大価値を創造し、民衆の幸福と社会の繁栄を築き上げることを目的としていた。
 日蓮仏法の最たる特徴は、「広宣流布の宗教」ということにある。
 つまり、妙法という生命の大法を世界に弘め、全民衆の幸福と平和を実現するために生きよ。それこそが、この世に生を受けた使命であり、そこに自身の幸福の道がある――との教えである。
 したがって、自分が法の利益を受けるために修行に励むだけでなく、他人に利益を受けさせるために教化、化導していく「自行化他」が、日蓮仏法の修行となる。
 大聖人は仰せである。
 「我もいたし人をも教化候へ、行学は信心よりをこるべく候、力あらば一文一句なりともかたらせ給うべし」と。
 ゆえに、勤行・唱題と折伏・弘教が、仏道修行の両輪となるのだ。
 そしてまた、日蓮仏法は「立正安国の宗教」である。
 「立正安国」とは、「正を立て国を安んずる」との意義である。
 正法を流布し、一人ひとりの胸中に仏法の哲理を打ち立てよ。そして、社会の平和と繁栄を築き上げよ――それが、大聖人の御生涯を通しての叫びであられた。
 一次元からいえば、「立正」という正法の流布が、仏法者の宗教的使命であるのに対して、「安国」は、仏法者の社会的使命であるといってよい。
 大聖人は「一身の安堵を思わば先ず四表の静謐を祷らん者か」と仰せになっている。「四表の静謐」とは社会の平和である。
 現実に社会を変革し、人びとに平和と繁栄をもたらす「安国」の実現があってこそ、仏法者の使命は完結するのである。
 ところが、日本の仏教は、寺にこもり、世の安穏や死後の世界の安楽を願って、経などを読むことでよしとしてきた。
 それは、世を避けて仏門に入る「遁世」を、信仰の一つの形態としてきたことにも、端的に表れている。社会の建設を忘れた宗教は、現実逃避であり、無力な観念の教えにすぎない。
 大聖人は、そうした仏教の在り方を打ち破る、宗教革命を断行されたのである。

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