Nichiren・Ikeda
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1 新緑(1)
必ず、新しい朝が来る。
朝は希望である。
心に希望をもてる人は、新しい朝を迎えることが楽しい。
さあ、出発だ!
黄金の扉を開け!
生命の扉を開け!
新しき世紀の風は吹き渡り、青き海原に希望の波は、金波、銀波と躍る。
新しき人生の出港の銅鑼を、力いっぱい、高らかに打ち鳴らせ!
我らの尊き使命の、偉大なる決戦の大航海が、今、始まるのだ。わが友とわが同志と一緒に!
一九六七年(昭和四十二年)五月三日――。
この日も、若き山本伸一会長が誕生した七年前と同じように、抜けるような青空が広がり、燦々と陽光を浴びながら、街路樹の新緑が、そよ風に揺れていた。
正午、伸一の会長就任七周年となる第三十回本部総会が、両国の日大講堂で、晴れやかに開催されたのである。
開会前には、音楽隊、鼓笛隊千二百人が、大パレードを繰り広げた。
沿道は、学会員をはじめ、たくさんの市民で埋まり、青年たちの躍動感あふれる演奏行進に、随所で歓声があがり、盛んに大拍手が送られた。
音楽隊のなかには、スーザホンという朝顔のような形をした、重さ約十五キログラムの管楽器を肩にかけ、両手で抱え込むようにして、約五キロメートルの道のりを吹奏し続けるメンバーもいた。
大変な重労働といってよいだろう。
パレードは実に整然としていた。若き生命は、はつらつと躍動し、光り輝いていた。
会場の日大講堂は、午前八時過ぎには、人また人で埋まった。
場内の正面に掲げられた白い大きな幕には、これまた大きな朱の文字で「祝」と書かれ、その下には、墨痕鮮やかに、「会長就任七周年」の文字が躍っていた。
どの顔も歓喜に燃え、どの頬も紅潮していた。
皆、伸一と共に戦い、共に泣き、共に笑い、広宣流布に走り抜いてきた同志である。
そして、そのなかで、人生の苦悩を乗り越え、宿命を転換し、自身を輝かせてきたのだ。
それだけに、限りない感謝の念と、雀躍せんばかりの弾む心で、あの友も、この友も、集まって来たのである。
2 新緑(2)
参加者は、高鳴る胸の鼓動を抑えながら、開会を待った。
「苦難のなかに毅然として立つ人を見るほど、われわれに大きな感動を与えるものはない」とは、古代ローマの哲学者セネカの言葉である。
午前十一時半、海外からの祝電が披露された。
「謹んで会長就任七周年をお祝い申し上げ、アフリカ広布に邁進することを誓います。
――ナイジェリア同志一同!」
次々と、世界各地のメンバーの、喜びと決意が伝えられた。
そのたびに、大きな拍手がドームの大天井にこだました。
広宣流布のこの広がりこそ、山本伸一が十二回にわたって海外訪問を重ね、世界の五大州を駆け巡ってきた、奮闘の結実であった。
定刻の正午、万雷の拍手のなか、伸一が入場。開会が宣言された。
開会の辞に続いて総務の十条潔が、伸一の第三代会長就任以来の歩みを語り始めた。
「この七年間の前進はなんとすばらしい、大偉業の歳月であったことでありましょうか!
恩師戸田城聖先生のご遺命のことごとくが、山本先生の手によって現実のものとなりましたが、幾つかの観点から、それを見てまいりたい。
世帯数は先生の会長就任前には、百四十万世帯でしたが、この七年で広宣流布は大前進し、今や六百二十五万世帯となり、支部数は六十一から、国内だけで三千三百九十三と、大飛躍を遂げたのであります。
また、山本先生は、高等部、中等部、少年部という、未来に羽ばたく鳳雛たちの組織を結成。広布後継の大河の流れをつくられたのであります。
さらに、教育部、芸術部、学術部など、文化創造のための各部も誕生。多彩な人材が陸続と育ってまいりました。
一方、広く社会に、新しき人間文化の光を送るために、音楽・芸術の分野では民音を設立。
学術研究の分野にあっては東洋哲学研究所(発足時は東洋学術研究所)などを、政治の分野では公明党を創立されたのであります。
また、現在、創価中学・高校は、明年の開校をめざして着々と建設が進んでおりますし、創価大学も開学に向かい、準備が進められております」
3 新緑(3)
十条潔は、海外においてもメンバーは十五万世帯となり、アメリカ本土のロサンゼルス近郊にも、新寺院がオープンすることなどを発表して、こう話を結んだ。
「まさしく、この大偉業、大発展は、山本先生が億劫の辛労を尽くされたからであると、痛感いたしております。
そのことに対し、私は心から先生に、御礼、感謝申し上げたい。
私たちは、ともどもに報恩の一念を燃やして、新しい決意と勇気をもって、次の七年への大前進を誓い合おうではありませんか!」
怒濤のような大拍手がうねった。
皆、十条と同じ気持ちであった。
だが、山本伸一は拍手を送る同志を見て、むしろ申し訳なさを感じた。
確かに彼は、この七年間、無我夢中で走り抜いてきた。
なかなか家に帰ることもできないような、東奔西走の日々であった。
もともと病弱であった彼は、何度となく体調を崩しもした。
それでも、自分を待っている同志がいると思うと、じっとしているわけにはいかなかった。
伸一は、会長に就任した時、広宣流布のため、同志のために、一身を捧げようと誓った。だから当然のこととして、激闘を自らに課した。
だが、その分、学会員には、よく休養をとり、人生の楽しさを満喫しながら、信心に励んでほしいと念願してきた。
しかし、会員の多くは″広布こそ、わが人生!″と定め、来る日も来る日も、全力で走り抜いてくれたのだ。
伸一は、その健気なる姿を、日々、涙が出る思いで見てきた。
そうした同志の敢闘あってこその、七年間の大発展であると考えていたからだ。
何人かの幹部のあいさつが終わり、雷鳴のような拍手が轟いた。遂に伸一の講演である。
凛とした声が響いた。
「……わが学会も、これまでの七年間は、航海にたとえれば、近海の航路を航行していたようなものでありました。
しかし、いよいよ、いっさいの訓練を終えて、偉大なる目標へ、一直線に太平洋の荒波に、雄々しく船出する壮挙の時を迎えたのであります!」