Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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「凡夫即極」の人間学 (第5回)

2008.1.22 「御書と師弟」

前後
1  御聖訓「釈迦仏は我れ等衆生のためには主師親の三徳を備へ給うと思ひしに、さにては候はず返つて仏に三徳をかふらせ奉るは凡夫なり
2  「庶民こそ偉大!」の大宣言
 もう四十年ほど前でしょうか。ある著名な評論家と会った折のことです。先方からは延々と自己紹介がありました。名門の家柄であること、有名大学の出身であること……。
 私は一言だけ申し上げました。
 「私は戸田城聖先生の直弟子です。これが最高の誇りです」日蓮仏法は、全民衆を照らす「太陽の仏法」です。
 創価学会は、この大仏法を広宣流布しゆく「民衆の教団」です。庶民を守り、庶民を励まし、庶民の底力を引き出して、大きく社会を変えてきました。民衆の力ほど強いものはありません。
 今、大変な経済危機にある社会も、庶民を最大に励まし、心を奮い立たせることによって、必ず未来への活路を開くことができる。
 政治にせよ、経済にせよ、指導者たちが、庶民への「感謝」と「献身」に徹していけば、社会は必ず良くなります。
 反対に、庶民の力を生かせない社会は必ず行き詰まります。「地位」や「学歴」を鼻にかけて、庶民を見下し、利用し、犠牲にするようであれば、社会の闇は深まるばかりでしょう。
 日蓮大聖人の仏法は、こうした傲慢と虚栄と差別の風潮を真っ向から諌め正す「人間主義」「民衆主義」の大哲学です。
 今回、拝読する「諸法実相抄」の御文は、凡夫こそ最も尊い仏であるという「凡夫即極」の哲理を示された重要な御聖訓です。
 「釈迦仏は我れ等衆生のためには主師親の三徳を備へ給うと思ひしに、さにては候はず返つて仏に三徳をかふらせ奉るは凡夫なり
 釈迦仏が我ら衆生を成仏に導くために主師親の三徳を具えられていると思っていたが、そうではない。反対に、仏に三徳を被らせているのは凡夫である──。仏の偉大な徳も、凡夫がいればこそ輝くのだ、との仰せです。
 すごい御金言です。「権威のための宗教」を「人間のための宗教」に一大転換させた、人類史に燦たる人間主義の大師子吼です。
3  宗教革命の勝利劇
 ここでいう凡夫とは、大聖人御自身の御事です。大聖人は、一人の凡夫として一身に大難を受けられながら、法華経の経文を身で読まれ、仏の金言が真実であることを証明されました。
 大聖人の御生涯そのものが、「凡夫即極」を示された宗教革命の偉大な勝利劇であられたのです。
 そして、この大聖人に連なって立ち上がり、妙法を唱え弘める門下もまた「凡夫即極」の実践者となることは、御聖訓に照らして絶対に間違いありません。
 本来、仏教は「人間釈尊」から出発した教えであった。それがいつしか、色相荘厳の仏とされ、それを聖職者らが自分たちの権威づけに利用し、民衆と隔絶してしまった。この仏教の歴史を大転換したのが、大聖人の「凡夫即極」の法門です。
 仏に照らされて衆生が輝くのではない。むしろ凡夫こそが、仏を仏たらしめている”主役”なのだ──このように「仏と凡夫」の考え方を逆転させたのです。
 その裏づけとなるのが「諸法実相」という甚深の法理です。
 本抄の冒頭では、「諸法」(あらゆる存在・現象)はことごとく「実相」(真実の姿)であるとして、一切の現象は「一法ものこさず妙法蓮華経のすがた」であると説かれています。
 宇宙の森羅万象、ありとあらゆる事象が「妙法」の現れである──。ゆえに、その実相である「妙法」そのものを唱え弘めゆく凡夫こそ、最極の法に生きる尊貴な仏なのであります。
 大聖人は本抄で、凡夫こそ「本仏」であると力強く仰せです。凡夫は妙法の当体(体の仏)だからです。
 これに対し、経典に説かれるさまざまな仏は、すべて妙法の働きを示した姿(用の仏)であり、「迹仏」(仮の仏)にすぎないとされています。

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