Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

大正十年~十一年  

若き日の手記・獄中記(戸田城聖)

前後
7  蕭々しようしようの雨窓を打って、遠路の客をして故山の父母をなつかしむ。老いませる父君、衰えませる母君、ああ、いかにしてその日をお過ごしか。烈しき生存の競争場裡にも、静かに星のまたたく夜にも、我が脳裡より離れざるは両親の安否なり。若くよりおそばを去りてすでに八星霜、その八星霜の朝夕、我が心にむちうちしはご両親の老いませる御顔なり。
 父君よ、母君よ、おそばを離れし不孝の児は、浮き世の荒波に沈みつ浮きつして、男の子の胆を練りつつありしなり。彼岸の光明得んものと、朝も夕も怠りなく、兄上様の御力に頼って愚か全力を挙げつつありしなり。この程一、二年が間は一途に書物が山にわけ入って、前途幾千里のうちの一駅を越し次の山をながめしなり。
 次に越すべき山は高くして険し、しかして我が身を顧みれば兵糧既につきて、疲れたり、一夜を山下にいこうべしとは我れの今なるかな。
 兵糧を得つつ山を登る。なし難きにあらず。されど時に、天災ありて、これをこばむをいかんせん。我れ山下に三年いこうて兵糧の為に闘うべし。
 右も左も見るべきにあらず。兵糧の為に生命の全部をささぐとも、何のくゆるところあらん。兵糧は我が為に、生命の大使命を果たす良臣なり。これを集むるに全力を挙ぐる、また誰人かこれを非とや言わん。
 同日午後七時。生まれて二十三歳、真の恋を知る。理想の妻と定めし彼女、また我が為に誠心を捧ぐ。
 我れ根強く彼女を愛さん。いかなる変化にあうとも、いかなる境遇にあるとも、我が妻は彼女のみ。男子はあらゆるものに強く、青年はあらゆるものに燃ゆ。男子の特徴は強きにあり、青年の強みは燃ゆるが如き熱情にあり。我れ、今までは前途にのみ強きを知りたるなり。前途にのみ燃えたるなり。我れも男子にして若き青年なり、前途に強きが如くこの恋に強かるべく、前途に燃えたるが如く、この恋に燃ゆるべし。
 前途と恋に青年の意気を表わさん。
 前途に向かう大精神の一部具体化されたる三年間の計画の根底なりて、我が心を迷わしめたる恋に対する観念定まりぬ。
 男子何の躊躇ちゅうちょかあらん。堅実の計画、確実の方法のもとに、一歩一歩と進まなん。
 しかして父母様が現世にいますそのうちに、我れと妻とともに孝行の児となりて、老親様の御心なぐさめん。
 下宿八畳の間にただ一人机に向こうて、この一月以来の解決を与う。
 学校出と言う形を捨てて恨みなく。教員と言う名を去るとも惜しみなき。
   (大正十一年四月二十四日)
 ☆戸田にとって、この年は新しい夜明けでもあった。三笠小学校の教員をやめ、恋から結婚へふみきった年でもある。
8  教員をやめた後、渋谷道玄坂で、下駄屋をひらいた。下駄屋といっても露天商のようなもので、下駄の緒は、夜なべで彼自身がつくった。その後、八千代生命の外交員になり、大いに成績をあげた。当時の同僚に野村、川瀬兄弟がいる。戸田を交じえてこの四人は、かたい友情で結ばれていた。関東大震災にあうが、そのとき、つた子夫人の実家の新潟から米を運んで売り、金をもうけた。
 八千代生命は、時代の不況を受けて廃れた。戸田は八千代生命に勤めるかたわら、目黒・日の出幼稚園の一室を借りて、私塾をひらいて補習授業をおこなっていた。これが『時習学館』のはじまりである。大正十二年、江原氏の後援により、現在の国電目黒駅のすぐそばに『時習学館』を開設した。多くの子女が集まり、秀才教育をほどこすので名高かった。

1
7