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日蓮大聖人・池田大作

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大正十年~十一年  

若き日の手記・獄中記(戸田城聖)

前後
3  大正十一年二月二十三日、神ハ罪ノ一部ヲ許サレテ我レニ、高検ヲ与二給ウ。タダ有難ク感謝スル。
 我レ生マレテニ十三歳ニシテ真ノ恋ヲ知ル。理知ノ上二立チ、感情卜闘イ、シカシテ、コノ恋、心中二横ワル。
 吾人ノ運命ッハ三月卜四月トニアリ。コノ恋イカナル変化ヲナスカ。マタ、予測ナシ難キトコロ、シカシテ一高卜慶応トノ受験ニョリテ、前途ノ一段ヲッケテ、直チニ感得セル使命ノ為二奮ワントス。
 兄上様ヨ、コノ恋、使命ノ為二妨ゲナクンバヨシ、使命ノ為二妨ゲアルナラバ、一時ナキモノトシテ、吾人ヲ奮闘セシメ給エ。人生ノ事、高言ニヨル能ワズ。タダ、兄上様ノ命ニヨリテコトヲナサンノミ。私ハ私ノ尽クシ得ル限リヲ尽クスベケレバ、兄上様ヨロシク、私ヲシテ、導キ給エ。真男子トシテ神ノメグミヲ受ケ得ル男トシテ、兄上様ヨ、真ノ男トナサシメ給エ。夜七時半。
 兄上様私ヲシテ得サシメ給エ 一高入学ノ栄ヲ。
 人生ノ変転ハ知ラズ。嗚呼、私ハコレノミ深ク兄上様ニ祈ルナリ。
 燈下床ヲノベテ過去三四年、以前ノ思想ニ遇ウ。感慨無量、コノ感ヲ書セントシテ書スアタワズ。
  (大正十一年二月二十三日)
 ☆戸田はこの年、高検の試験を通っている。
 真ノ恋ヲ知ル。とあるが、これは戸田の最初の夫人つた子である。彼はその後結婚、一女をもうけるが、その子(安代)は幼児のとき死亡。つた子夫人も結核で死亡。
4  二年の月日は永いわけでない。日数とすれば約八百日。回顧すれば、その間は、僕にとっては物質的に精神的に向上した月日と言わねばならない。
 ほとんど行きづまった真谷地の教員時代から、東京の荒波の中へ、だれ一人知る者なき時代に飛び込んだのだ。意気があったからだと言うより外に道はない。まるで無謀にちかいものと批評もできる。暗黒時代もあった。日夜想いに沈んだ日もあった。計画はくずれる、戦いは破れる。川瀬君と二人手と手とを取って泣いたこともある。
 塩釜へ相談にいったが、何一つ得るなくして帰った。もだえた、苦しんだ、頼った。結局得たるものはなんだろう。苦悶……失望である。しかし僕の身体の中からは意気の火は消えなかった……そして最後に僕の運命を開いた大なる力は自分であった。
 行きづまる、もだえる、変転する。(小)時代からたびたびあったことだ。しかして今またその行きづまりの時代がきたのだ。変転期がきたのだ。
 もだえもしよう、考えもしよう、苦しみもしよう。当然あるべきことで何も不思議ではない。このもだえ、苦しみ、考える時代に彼女に恋し恋されたと言うことは時期が悪いと言えよう。前途の問題と、恋の問題との混線とも見える。この恋の問題も、前途が確定し、去年の様に一意専念思うたところに躍進していた時なら解決は容易なものであるし、前途の問題も恋がなかったら解決が早いかも知れぬ。しかし今の状態では首足の見当がつかない。ここが首と思うと頭であり、頭と言うと足であったりする。右にせんか、左にせんか。人に語りて参考の為に意見をきくといえども、絶対服従の名論もなければ我れを動かす力もない。その決を取るところへ行けば、同じくまた、我れもだえると叫ぶのみ。
 我れを支配するものは我れなり、真剣にて我が前途を案ずる者は我れなり。
 我れを知るは我れなり、我が意気の所有者は我れなり。
5  しかし過去のもだえの時代にも、光明を幾月かの後には間違いなく認めることはできた。今日では三か月くらいで認め得るやも知れぬと言う状態である。
 自分はしかし、光明を認めるつもりでやってみなくてはならない。我れを殺す者は我れで、我れを生かす者も我れである。物質は自分自身の決して目的ではないが、我が目的の副目的産物であり、かつこれが我が目的に我れを導く最もよき良指導者である。
 自分は目的の一段階としてこれを置こう。三年の計画、これを基礎としてたてよう。成果のよしあしは自分の知った事ではない。事の利害は案ずるに足らない。『恋も一時捨てよう』、学問も一時思いとどまろう。一切を捨てる意気が一切を拾う意気を与えるに違いない。混乱した万物の中からただ一つ拾うて他全部を捨てる。これが僕を真に救う良手段に違いない。
   (大正十一年四月二十二日)
6  四月の変転はありたり
  教員をよすこと
  学校へ入ることをよすこと
 この二事にいたるまでの二ヵ月間の苦労、我が身を切るが如き感ありしなり。恋は得たり。捨つべき物は捨てて惜しむなく、得んとするものは大執着を以ってこれを得ん。
 兄上様よ、城外をして真に男として行かしめ給え。
 万事を改めて、以って生命の現存を喜ばん。
   (大正十一年四月二十四日)
 ☆戸田は四月という月は、自分にとって変化のある月だと断言している。桜の花の好きな彼が、行動をおこすにはふさわしい月である。没したのも四月。
7  蕭々しようしようの雨窓を打って、遠路の客をして故山の父母をなつかしむ。老いませる父君、衰えませる母君、ああ、いかにしてその日をお過ごしか。烈しき生存の競争場裡にも、静かに星のまたたく夜にも、我が脳裡より離れざるは両親の安否なり。若くよりおそばを去りてすでに八星霜、その八星霜の朝夕、我が心にむちうちしはご両親の老いませる御顔なり。
 父君よ、母君よ、おそばを離れし不孝の児は、浮き世の荒波に沈みつ浮きつして、男の子の胆を練りつつありしなり。彼岸の光明得んものと、朝も夕も怠りなく、兄上様の御力に頼って愚か全力を挙げつつありしなり。この程一、二年が間は一途に書物が山にわけ入って、前途幾千里のうちの一駅を越し次の山をながめしなり。
 次に越すべき山は高くして険し、しかして我が身を顧みれば兵糧既につきて、疲れたり、一夜を山下にいこうべしとは我れの今なるかな。
 兵糧を得つつ山を登る。なし難きにあらず。されど時に、天災ありて、これをこばむをいかんせん。我れ山下に三年いこうて兵糧の為に闘うべし。
 右も左も見るべきにあらず。兵糧の為に生命の全部をささぐとも、何のくゆるところあらん。兵糧は我が為に、生命の大使命を果たす良臣なり。これを集むるに全力を挙ぐる、また誰人かこれを非とや言わん。
 同日午後七時。生まれて二十三歳、真の恋を知る。理想の妻と定めし彼女、また我が為に誠心を捧ぐ。
 我れ根強く彼女を愛さん。いかなる変化にあうとも、いかなる境遇にあるとも、我が妻は彼女のみ。男子はあらゆるものに強く、青年はあらゆるものに燃ゆ。男子の特徴は強きにあり、青年の強みは燃ゆるが如き熱情にあり。我れ、今までは前途にのみ強きを知りたるなり。前途にのみ燃えたるなり。我れも男子にして若き青年なり、前途に強きが如くこの恋に強かるべく、前途に燃えたるが如く、この恋に燃ゆるべし。
 前途と恋に青年の意気を表わさん。
 前途に向かう大精神の一部具体化されたる三年間の計画の根底なりて、我が心を迷わしめたる恋に対する観念定まりぬ。
 男子何の躊躇ちゅうちょかあらん。堅実の計画、確実の方法のもとに、一歩一歩と進まなん。
 しかして父母様が現世にいますそのうちに、我れと妻とともに孝行の児となりて、老親様の御心なぐさめん。
 下宿八畳の間にただ一人机に向こうて、この一月以来の解決を与う。
 学校出と言う形を捨てて恨みなく。教員と言う名を去るとも惜しみなき。
   (大正十一年四月二十四日)
 ☆戸田にとって、この年は新しい夜明けでもあった。三笠小学校の教員をやめ、恋から結婚へふみきった年でもある。
8  教員をやめた後、渋谷道玄坂で、下駄屋をひらいた。下駄屋といっても露天商のようなもので、下駄の緒は、夜なべで彼自身がつくった。その後、八千代生命の外交員になり、大いに成績をあげた。当時の同僚に野村、川瀬兄弟がいる。戸田を交じえてこの四人は、かたい友情で結ばれていた。関東大震災にあうが、そのとき、つた子夫人の実家の新潟から米を運んで売り、金をもうけた。
 八千代生命は、時代の不況を受けて廃れた。戸田は八千代生命に勤めるかたわら、目黒・日の出幼稚園の一室を借りて、私塾をひらいて補習授業をおこなっていた。これが『時習学館』のはじまりである。大正十二年、江原氏の後援により、現在の国電目黒駅のすぐそばに『時習学館』を開設した。多くの子女が集まり、秀才教育をほどこすので名高かった。

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