Nichiren・Ikeda
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安倍晋太郎 元外相
つねに紳士の品格の人
随筆 世界交友録Ⅲ(池田大作全集第124巻)
前後
11 夫人に「支えてくれてありがとう」
氏は、家庭の事情で、生後数カ月で、お母さんと生き別れになったそうである。相見ぬ母の面影を抱いて、少年時代、山口から上京した折など、お母さんがいるというあたりを探して歩いたこともあったと、うかがった。
そういう氏を、妻として、ときには母のごとく支えたのが、洋子夫人であられたのではないだろうか。
選挙のさいも、後輩議員の応援のために地元に戻れない氏に代わって、最前線で動きっぱなしだったそうである。お子さんが小さいとろなどは、知り合いのところに、ずっと預けたままにするほかなかった。
選挙カーに乗りながら、あまりの疲労で、つい、まどろんでしまい、はっと気がついて畑仕事の人に手をあげると、奥さま、あれは、かかしです、と周りがおかしがったこともあったという。
「選挙というものは、人の心をいただくようなものだと思います」(前掲『わたしの安倍晋太郎』。以下、同書から引用)と語っておられるが、その一言に、議員夫人の苦闘が凝縮されている。
氏が亡くなる五日前のことである。病院で看病していた洋子夫人に、しみじみと言われた。「これまでぼくを支えてくれてほんとうにありがとう」と。
「結婚して以来、あのつらい選挙の後でも、外遊に同行したときでも、わたくしに札を言うことなど一度もなかったのに、それがわたくしにとって最初にして最後の、忘れられない悲しい礼の言葉となってしまいました」
ゴルバチョフ大統領を日本に迎えてから、わずか一カ月後の一九九一年五月十五日、氏は六十七年の生涯を閉じられた。八九年の同じ日に手術をしてから、ぴったり二年目であった。
12 ”生きて大業を、死して不朽の名を”
「日本の将来を考えると、世界に貢献する国家を、高い志を持った国家を、命がけで作っていかなければならない」
その言葉どおり、命がけで働いた氏には、一点の後悔もなかったであろうが、私としてはただ、総理になっていただき、ご自身の手で、ぜひ「日ソ平和条約」を結んでいただきたかった。
氏が敬愛する高杉晋作が師匠の吉田松陰に「丈夫の死すべきところは」とたずねたことがあった。
松陰は答えた。(=獄中から晋作に宛てた書簡)
――世の中には「身は生きながらも、心は死んでいる者」がおり、「身は滅んでも魂は残っている者」もいる。心が死んでいては、生きていても何の意味があろうか。魂が残っていれば、死んでも何を失ったことになろうか。
君よ、死して不朽となる見込みがあれば、いつでも死にたまえ!
生きて大業を成し遂げる見込みがあれば、いつまでも生きたまえ!――。
「生きて大業の見込あらばいつでも生くべし」
「死して不朽の見込あらばいつでも死ぬべし」
晋作は、わが身の病も顧みず、革命の渦を巻き起こし、巻き起こして、二十八歳で、この世を去った。
そして、大業を残し、不朽の名を残した。
桜花の季節とともに逝かれた安倍氏の生涯は、維新の舞台を用意しながら、みずからはその舞台に立つことのなかった青年志士を、私に思い出させるのである。