Nichiren・Ikeda
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エンフバヤル首相
新生モンゴルの文人政治家
随筆 世界交友録Ⅲ(池田大作全集第124巻)
前後
6 「空白」の歴史を文化で埋めたい
私は、エンフバヤル氏が来られた機会に、どうしても申し上げたかったことがあった。それは、両国の間は「戦争の歴史」しかなく、ほかは「空白」のままになってきた。この空白を「文化」で埋めたいということである。
そして「来客が絶えない」ような、にぎやかな友好関係をつくりたいと。
私の胸には、恩師戸田先生の言われた一言があった。
「大作、二人でモンゴルの大草原を、馬で走ってみたいな!」
思師の胸中にあった「大草原の道」――それを「平和の道」「文化の道」として、広々と開いていきたかった。
そのために、私なりに、民音(民主音楽協会)をはじめとする諸機関で努力もしてきたし、子どもたちのために創作物語『大草原と白馬』も書いた。
若き文化大臣は、「同感です。過去の不幸な歴史を乗り越えるためには、『相互理解』が必要であり、そのためには『文化交流』とそ大切です。今、一言われた『文化』には、広範な意味があると思います。芸術・教育・エコロジー(自然環境への配慮)・宗教・歴史観――そういったものすべてが入っていると思います」と、情理を兼ねそなえた、お答えであった。
氏はモスクワの文学大学で、大学院まで進んでおられる。
「専攻した作家は?」ときくと、「アイトマートフ氏です」とのこと。そう聞いて、うれしかった。
アイトマートフ氏と言えば、私はともに対談集(『大いなる魂の詩』、本全集第15巻収録)を発刊した親友である。
エンフバヤル氏も、「大学の先輩」にあたるアイトマートフ氏を誇りにしておられた。
7 「権力が腐敗するとき、詩が清める」
文学者であるエンフバヤル首相は言う。
「私は、たしかに政治で多忙ですが、愛とか慈悲といった『永遠の価値』をもつものを忘れではならないと思います」
そのとおりである。
私は、かねてより「真の政治家は詩人でなければならない」と考えてきた。
「永遠の価値」を、しかと見つめている人でなければ、現実の「泥沼」に足を取られて、そこから脱出することは並大抵のことではないからだ。詩人だけが「あるべき未来」へのビジョン(展望)を、生き生きと描けるからだ。
唐突のようだが、アメリカのケネディ大統領の言葉は、どの国でも真実であると思うのである。
「権力が人間を傲慢にするとき、詩が彼に自己の限度を思い出させる。
権力が人間の関心分野を狭めるとき、詩が彼に人間存在の豊かさと多様さを思い出させる。
権力が腐敗するとき、詩が清める」(暗殺の年〈一九六三年〉マスト大学での講演から)
その意味で、エンフバヤル氏のような教養人を首相に選ぶ国の未来が明るく思われてならない。
モンゴルは、だれでも詩を暗唱できる「詩心の国」でもある。
8 ”脱工業化”のモデルづくりに挑戦
2OOO年の夏、新首相は、政府の「行動計画」の筆頭に「教育」をあげた。
ちなみに、一九九二年の筆頭は「経済」であり、九六年は「行政」であった。
いよいよ、「モンゴルの心」が光る人材立国への旅が始まったのだと期待したい。
それは、自然とともに生きるモンゴルの人々の「生命愛」が、経済発展と調和しながら、二十一世紀の「脱工業化社会」の一つのモデルを築けるかどうかという挑戦である。
軍事力の時代は終わった。経済力だけの時代も、とうに終わっている。
もちろん課題は多いが、私はモンゴルの挑戦に注目している。
私の耳朶には、あの日、首相が教えてくださったチンギス・ハーンの言葉」が残っている。
「わが(小さな)数尺の体は滅びるもよし。わが大いなる国は衰えることなかれ」
わが身一身のことなど、どうでもよい! 社会の遠き将来のために、死力を尽くすのみ!
この心が、リーダーにあるかぎり、どんな困難も乗り越えていけるにちがいない。
「モンゴル」とは「勇敢な人」を意味するとも言われる。
風強く、光まぶしく、青空が、切りとられることなく、どこまでもどこまでも広がっているモンゴル。
〈草洋〉――青き草の大海原が、目の届く果ての果てまで、さえぎるものなく広がっているモンゴル。
悠久の天地そのものを「われらが住まい」として、生涯を旅人として生き、旅人として天に帰ってゆく人々。
人類が行き詰まり、途方に暮れて立ち往生してしまったとき、この国が、地平線のかなたから駆けつけて救ってくれる情景が目に浮かぶ。
「よし、わかった! 力を貸すよ。『人間らしく生きる』っていうのは、こんなに楽しいんだって、教えてやるよ!」と。