Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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ぺトロシャン副総裁(前東洋学研究所所長… ロシア科学アカデミー・サンクトぺテルプルク学術センター

随筆 世界交友録Ⅲ(池田大作全集第124巻)

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3  「文化の光」を守りぬいて
 その「人間」の魂を鮮やかに教えてくれたのが、博士の師匠であった。研究所の所長のオルベリ博士であり、コナノフ博士である。
 オルベリ先生は、大戦中の”レニングラード九百日の攻防”の英雄である。ナチスが「レニングラードを、この世から抹殺せよ!」と総攻撃をかけるなか、エルミタージユ美術館の館長として、美術品を守りぬいた。
 砲弾の雨が大音響で昨裂するなか、悠然と、ある詩人の生誕五百年を祝う会合を続けた先生であった。「ファシストたちの闇」に打ち勝つには、「文化の光」を燃やし続けることだ!――と。
 このオルベリ先生から、ペトロシャン博士は、「人間は、他人に価値をもたらすために生まれてきたのだ」と教わった。また「一本の木を見て、森全体を把握せよ」とも。精確な考察と、大きな展望の両方を要求されたわけである。
 一九六一年、そのオルベリ先生が亡くなった後、研究所は混乱した。「みんな先生に守られきっていたんです。後をどうするかなんて考えてもいませんでした」
 しかも、党の中央から後任の所長に指名されたのは、オルベリ先生とは正反対の官僚的な学者であった。「これでは学問は真っ暗になる……中央は、自分たちが何を言っているのか、わかっているのか!」
 所員は、尊敬するコナノフ先生に「ぜひ所長になってください」とお願いし、党との攻防戦を続けながら、”文化の世界”を守ったのである。
 「コナノフ所長からは、オルベリ先生にないものを学びました。とくに、時間に厳格な先生でした」
 時の一滴一滴を惜しんで、学び、創造する。その心を継いで、ぺトロシャン博士は、三十三年半の長きにわたって次の所長を務めたのである研究所の偉大な発展の時期であった。
 その間、学問に無理解な政治家との戦いも続いた。
 奥さんを亡くし、同じ年に十八歳の息子さんを亡くすという悲劇もあった。悲嘆に沈み、何も手につかなくなった博士に、お母さんが言った。「『いくじなし』になってはいけないよ。人生で出あった困難を嘆いてはいけないよ」
 三年後、苦しい時期を支えてくれた今の奥さまと再婚された。
 お母さんはまた、指導者として苦労している博士に、こうも言ったという。
 「人に腹を立ててはいけないよ。だれかが悪いと思ったら、怒らないで、良くなる方向に導いてあげなければいけない」
4  「法華経とシルクロード」展を開催
 博士が、しみじみとした声になった。
 「ぺレストロイカの前は『お金はあっても、自由がなかった』。今は『お金はないが、自由がある』。昔のほうがよかったのではと聞かれると、私たちは言うのです。『いいえ!』と。どんなに苦労しても、私たちには自由が大事です。その自由で、世界の友人と一緒に前進していきたいのです」
 「法華経とシルクロード」展も、研究所と私どもとの友情の結晶である東京、ウィーン、ドイツで開催できた。
 平和の経典・法華経の写本類が今日まで伝えられた陰にも、ドラマがあった。”九百日の包囲”の間問も、破損しないように、二人の男女の所員が、ときどき箱を開けては風を通したり、飢えに苦しみながら、身を挺して”仏の言葉”を守りぬいたのである。
 ペトロシャン博士が言われた。「いちばん大事なものは人材です。自分の仕事に命をかけていく。そういう人間こそが宝なのです」
 人間、人間、その人間を育てる根幹が師弟である。
 「私にとって、人生最大の幸福は、二人の偉大な師匠をもったことです」
 博士のとの精神が継承されるかぎり、東洋学研究所の未来は燦然と輝くにちがいない。

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