Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

高等部、中等部合同総会 「南条時光」の外護の信心に学ぶ

1986.8.4 「広布と人生を語る」第9巻

前後
18  身延離山は末法万年への大法興隆のため
 さて、再び日興上人と南条時光の麗しい絆についてふれておきたい。
 私の大好きな文でもあるが、堀日亨上人は、日興上人御年三十歳、時光十六歳のころのお二人の姿について「青春気鋭のキビキビした法談が梅花と共に複郁と妙香を放った。大石寺の成るも母胎はそこにある」と仰せである。
 ともかく、すばらしい僧俗、師弟の姿であった。この文には、妙法流布の未来へ進みゆく気高い青春の薫りを感じてならない。未来を決定づけるのは若い人々である。若い人に期待をかける以外にない。
 大聖人の御入滅後も、身延には日興上人がおられた。この身延の土地を持っていた地頭は波木井実長という武士で、大聖人から何通かの御手紙をいただいた大信者であった。
 ところがこの波木井実長は、身延の学頭であった民部日向の軟風、邪義におかされ、立像の釈迦仏の造立、箱根・伊豆山の両権現と三島神社への参詣、念仏福士の塔の供養、九品念仏の道場建立という四箇の謗法をおかしてしまう。時が変わると、軟風におかされ、世間に迎合して退転していく。この原理は昔も今も同じであるといえよう。
 すばらしいと思っていた幹部でも退転してしまう。草創期にともに講習会で信心を鍛錬しあった青年部員の少なからぬメンバーも、退転してはならないと誓いあいながら、時とともに退転している。ほんとうに人の心は、はかなく移ろいやすいものである。諸君は断じてそうなってはならない。
19  師敵対の民部日向と、四箇の謗法をおかした波木井実長のために、身延の霊地も、謗法の山と化した。そのため日興上人は、大聖人の正法正義を純粋に伝えていくために身延を離山されるのである。
 そのとき、時光は日興上人に、今の大石寺、当時「大石が原」と呼ばれていたこの地にお迎えしたいと申し上げる。日興上人はたいへんに喜ばれて、末法万年の大法興隆の礎をつくり上げるとの御決心で移られたのである。ときに正応三年(1290年)、時光は三十二歳であった。ここに、末法万年への正法の清流が新たに流れ通いはじめたのである。
 これからの広宣流布の流れを考えるとき、諸君はよくよくこの歴史の教訓を胸に刻んでいただきたいのである。
 かりに多くの先輩が世間に迎合し退転していったとしても、この時光の精神を堅持した若き高等部、中等部の諸君が、かならずや新しい広宣流布の天地を開いていくにちがいないことを私は信じ、期待するのである。

1
18