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日蓮大聖人・池田大作

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千葉県本部長会 広宣流布の覚悟は「勇猛心」

1986.6.8 「広布と人生を語る」第9巻

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12  御書を拝し信心を深化
 御書を拝する意義はどこにあるか。それは、自らの信心を深め、退転への道を塞ぎゆくところにある。たとえば「佐渡御書」や「開目抄」を拝し、研輩しているのも、すべて、日蓮大聖人の広大無辺の御境界にふれ、自身の強盛なる信心を構築しゆくためのものである。この意味から、これからも着実なる御書の拝読をお願いしたい。
 しかし、御書の研鑽のみでは、成仏はできない。いかに御書を拝読したとしても、真剣な唱題と広布への実践なくしては、無量の福運を積み、成仏への直道を歩みゆくことは不可能なのである。
 御書や仏法の法理をどんなに知っていても、信心を失い、広布への実践を忘れた「有解無信」 の人であっては、成仏はできないのである。
 たとえ、仏法の教義が深く理解できなくても、真剣な唱題に励み、真心から御本尊を讃嘆し、悩める友に御本尊の偉大な功力を教えていく「無解有信」の人は成仏できるし、はるかに偉大な存在なのである。この点を、私どもは鋭く見極めていく必要がある。
13  その意味からも、婦人部の皆さま方が愚直なまでの純粋な信心を貫かれている姿は、感服せざるをえない。なかには御書を拝しても、なかなか理解できない方もいるかと思う。また、きょうは理解できても、翌朝にはすっかり忘れてしまっている場合もあろう。(笑い)それでも、婦人部の皆さま方は、信心のひたむきな実践を忘れず、日々一時間、二時間と唱題に励み、広布の活動に凛々しく邁進されている。それは、教学力のみがどんなにある人よりも尊く、また美しい姿といえるのである。
 御書には、三世十方の諸仏も「信」の一字により成仏したと仰せである。大聖人の仰せのとおり、まじめに広布の実践に励み、純粋な信心を貫くことが根本中の根本であり、肝要中の肝要なのである。
 そのうえで、現実の生活と社会を大切にしながら、信心の実証を生活のなかに輝かせ、歩みゆく人こそ、真実の大勝利者であり、栄光の人生を築きゆく人であることを銘記していただきたい。
 最後に、千葉広布のますますの発展と、皆さま方のご多幸と今後のご健闘を心からお祈りし、本日の話とさせていただく。

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