Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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東京・北多摩圏ヤングミセス代表者会 夫を支え、子供を立派に

1986.4.11 「広布と人生を語る」第8巻

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5  ”さいわい” は心から
 御書に「わざわいは口より出でて身をやぶる・さいわいは心よりいでて我をかざる」との御文がある。
 信心の世界にあっても心が野心と虚栄のみで、口先がうまく、要領よく世を渡り、小利口に振る舞う人間がいた。だが、そうした人は一時的に成功したように見えても、長い目でみた場合、結局は人々から見ぬかれ、信頼を失ってしまうものである。自らの不誠実と虚栄の心によって自ら不幸をまねき、人生を破壊していくのが常である。
 逆に、たとえロべたであっても、誠実でまじめな信心を貫き、真心のうえから語り、行動していく人は、最終的に自分を「さいわい」で飾っていくことができる。人からも尊敬されていくものである。
 短い一節であるが、目に見えない「心」「一念」が、どれほど大切なものか、また人生の幸、不幸を決定していくか、その要諦を御教示された御文であると思う。
 要するに、仏法の世界においては、口のうまさとか、小利口な要領のよい生き方は、まったく必要のないことであり、無縁なのである。そのことを皆さまは賢明にかつ鋭く見ぬいていただきたい。
6  ヤングミセスの皆さま方には、日々、さまざまな悩みやご苦労があるにちがいない。しかし、どこまでも信心根本に、ご主人を守り、支えながら、お子さんを立派に育てていただきたい。そのうえに立って、「法」のために、また悩める人々のために尽くしていただきたい。やはり自分の幸福のみを追求する行き方だけでは、エゴとなるし、自らも成長できないからである。
 その平凡と思える日々の生活、行動のなかにのみ、真実の幸福は築かれていくのである。それを忘れた行き方は、大地から足がはなれ、空中を歩いていこうとするようなむなしい生き方である。独りよがりで、心もとない、不確かなものであり、実像の幸福を築いていくことはできない。結局は行き詰まり、不幸の人生へと流されてしまうであろう。
 その意味において、どうか、どこまでも自分らしく、どこまでもわが家らしく、一歩また一歩と幸福と充実の世界を心に大きく広げながら、所願満足の朗らかな人生を生きぬいていっていただきたい。

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