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日蓮大聖人・池田大作

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島根県各部の代表者会議 妙法の冥益の年輪を拡大

1984.5.21 「広布と人生を語る」第6巻

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3  各自の立場を境涯開く場に
 人生には、それぞれの人によって、さまざまな道がある。芸術の道、学問の道、さらに剣の道、書の道、華道等々である。それらを通し、それなりに人生の精髄を追求しようとしているにちがいない。しかし、それらの“道”では、それぞれの分野での奥義を極めていけるかもしれないが、汝自身の人生の精髄を極めることはできない。いわんや現在では、その道の奥義を極めようとするよりも、経済に打算に走ってしまう場合が多い。
 これに対して仏道は、だれ人もまず根本的に仏界を開き、自身の人生の精髄を会得できる法理なのである。その信心のうえから、現実の社会的立場へ、仕事へ、家庭へ、生活へと開花させ、価値ある人間としての生きがいの花を思いきり咲かせていけるのである。
 大聖人は、御自身にとって、最大の苦境であられたと拝される佐渡の地にあて「喜悦はかりなし」との、偉大なる御境界であられた。
 また、身延々でお書きになった諸御抄を拝しても、さまざまな御苦労のなかで、大法を永遠に残し、法体の広宣流布の基盤をつくりゆかんとされる御境界であられた。
4  他の宗教にあっても布教において、多くの犠牲はあった。それに比べれば、われわれは大聖人の大慈大悲につつまれての弘教でありる。しかも妙法の力ですべての苦労が福運の因となるのである。けっして感謝の心を忘れてはいけない。
 皆さん方は経済的に大変な場合もあろう。また、さまざまな宿命で悩むこともあろう。そこで大事なことは、いかなる立場であれ、どれだけ境涯を広げ、深めていくかである。どのような状況、立場に置かれても、喜びあふれる境涯を自分で会得できるところに、信心の醍醐味がある。
 近視眼的にみて疑いを起こし、信心を退したり、愚痴をこぼして境涯を広げることを忘れてはならない。
 人生の精髄は、自分の与えられた立場、境遇で、どれだけ人生の意義をかみしめ、自身の使命を感じとるかにある。
 他の場所に幸せを求めようとする心には、いずこにいっても幸せはない。それぞれの職場、家庭、生活を大切にし、そのなかから幸福の道を開いていけるのが、妙法であり、信心の力用なのである。その力をもった人こそ、いかなる名声の高き人よりも、財宝を蓄積した人よりも、人間的に幸福な人なのである。その強い喜びを感じとっていけるのが、信心である。
 その根本は、大御本尊の受持に尽きる。ゆえに、どこの地にあっても、「法を弘め」「法を会得し」「法を極めゆく」一生であっていただきたい。この行動とこの道を生涯、貫き通した人が、人間としての最極の幸福を価値とることになるのである。
5  昨日、米子に、ある婦人と息子さんが、あいさつにみえた。その人は「三十年前、鳥取の海岸で、この息子と二人、入水自殺をしようと思った。それが信心によって、こんなに幸せな人生となれた。息子も外交官となり、きょうは二人で米子にくることができた」と、感慨深げに語っていた。まさしく“冥益の結晶”を思わせるこの母子の姿に、私は胸がいっぱいになる思いであった。
 大御本尊には無量無偏の「仏力」「法力」があられる。あとは私どもの「信力」「行力」によって、いっさいの功徳の実相が決まる。
 しかし、人間の心というものは、変化しやすく微妙なものである。功徳を受けたときは感謝の心で燃え立つが、いつしかその感謝も忘れ去ってしまう場合が多い。
 御本尊への限りなき感謝の信心があれば、功徳はさらにまさるものである。心の移ろいやすさを互いに心していきたいものだ。
6  功徳には顕益と冥益があるが、大聖人の本因妙の仏法では、冥益が根本であるといってよい。大木は年を経るごとにその年輪を重ね、広げていく。と同様に、信心修行の功徳の年輪も大木と同じように、時とともに増加していくものである。
 冥益であるがゆえに、この功徳の増大も、現実の風波におおわれて目には見えない場合もあるにちがいない。しかし、疑って退したならば、自分が損をするのである。信心の年輪とともに、功徳の年輪もかならず拡大していることを確信していただきたい。
 大木になれば、高きがゆえに風雪をより強く受ける場合があるだろう。小木や中木を大風から守らなければならない場合もあるにちがいない。それと同じく、幹部であればあるほど、苦労が多いことも事実である。
 しかし、私どもは、この妙法の大冥益の功徳を積みゆく自分であることを確信して、後輩を守るためにも大木のごとき厳然とした人生と信心を全うしていきたいものである。

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