Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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江戸川区記念幹部会 ”信心の王者”らしき尊き生涯を

1983.1.28 「広布と人生を語る」第4巻

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5  信心は一生涯である。世間でも「棺を蓋いて事定まる」といわれるように、その人の信心が本物であったか否かは、生涯をみて決まるのである。
 いまは燃え立つような信心であっても、信心は一生涯にわたって、全うしゆくものでなくてはならない。
 日蓮大聖人の御在世においても、数多くの人が退転し去った。第二祖日興上人の時代も、またそうであった。第三祖日目上人の時代にも同じような姿があった。先師日達上人の時代にも、また、御当代御法主日顕上人猊下の現在にも、残念ながらその姿があった。また、大聖人の仏法を行じゆく学会のなかにも、同じ歩みがあった。
 退転ほど、仏法上、恐ろしいものはない。また、不幸なものはない。退転した場合、はじめはわがままができ、順調にいくようにみえるが、かならず長い人生の最終にあっては、それはそれは厳しき総決算がなされてゆくのである。それがまた、
 永遠の生命のうえからの仏の慈悲である。
 人生の途中の姿がいかによいようにみえても、それは夢なのである。人生の決定的な幸、不幸の意義は、最終章にあるし、永遠からの尺度でみていかなければならない。
6  仏法には「当分跨節」という原理がある。「当分」は幸せそうにみえても、一歩深く「跨節」の立場からは、そうでない場合がずいぶん多いものだ。生命の真の幸、不幸を知るにも、この「当分」「跨節」の見方が必要となるのである。
 ともあれ私どもは、いかなる難ありとも「信心の王者」らしく「広布の王者」らしく、すべてを悠々と乗り越えていく一生でなければならない。いかに経済的に苦しくても、また、病に倒れる場合があっても、この王者の気概だけはけっして忘れてはならない。広宣流布への道程は長い。その活動も多岐にわたる。大事なことは、同志間の理解である。
 疲れる場合もある。病む場合もある。多忙な場合もある。そういうときには、けっして無理をさせぬよう、「きょうの会合は私がしますから、安心して休んでほしい」との励ましあいが、大事となってくる。少々、会合に出なくなるとすぐに「あの人は退転してしまったのではないか」「“邪信の壇徒”にでもいくのではないか」(大笑い)等々、その人を信頼しようともせず、また理解もせず、かえって追いつめるようなことがあってはけっしてならない。
 江戸川の皆さま方の大福運を心から祈り、理想的な区の建設を念願して私の話とさせていただく。

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