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日蓮大聖人・池田大作

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第十回伸一会研修総会 「親心本尊抄」に学ぶ

1982.7.30 「広布と人生を語る」第3巻

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13  いま、日蓮正宗御宗門においても、仏法の師であられる御法主上人猊下に師敵対する僧俗が出たことは、まことに悲しむべきことである。これは恐ろしき謗法であり、真の日蓮大聖人の仏法を信解していない証左なのである。血脈付法の御法主上人を離れて、正宗の仏法はありえないのである。
 広宣流布そして正法正信の直系を離れ、我見の教学を論じ、背信の一群をリードしたとしても、それは異説邪道である。そのようなごまかしの教学に絶対にたぶらかされてはならない。また、摧尊入卑もけっしてあってはならない。正法正信のために、後世のために、私どもは強く戒めておかねばならないと思う。
 ともあれ、大聖人の仏法を学する者は「未だ得ざるを為れ得たりと謂い」という“増上漫”に、断じてなってはならない。まためどもめどもつきぬ大法門を、月々年々に求めゆく謙虚な姿勢がなくてはならない。多少、教学の理解があり、かつまた講義が巧みであるからといって、それがただ自身の名誉や慢心であったり、エゴのアクセサリーであったりしては、けっしてならない。そのような轍を踏む者を、私たちは二度と出してはならない。
 信心から昇華された、真の教学であるならば、おのずから悩める友、悲しめる友に、正法を教えゆかんとする折伏を行じていくようになるのである。そうでなくして、教学のための教学という趣味的ないき方であったとすれば、大聖人のおしかり
 をこうむることはまちがいないであろう。
 諸法実相抄の「行学の二道をはげみ候べし、行学たへなば仏法はあるべからず、我もいたし人をも教化候へ、行学は信心よりをこるべく候、力あらば一文一句なりともかたらせ給うべし」との御金言のごとく教学はあくまでも正しい信行のあり方を学び実践するためであり、一生成仏、広宣流布のためであることを、くれぐれも忘れてはならない。
14  戸田先生の門下への厳しい指導の根幹は、「信心は大聖人の昔に還れ、教学は日寛上人の時代に還れ」ということであった。
 こうした、戸田先生の教学に対する厳格な指導を、本尊抄に拝するたびになつかしく思い起こすとともに、私はこの精神をいまふたたび全学会のなかに甦らせていかねばならないと痛感している。
 信行の進むにつれて、御書の拝読の深さも変わっていくものである。御書の拝読においては“これでよし”との考え方は、絶対につつしむべきである。いま、拝読した観心本尊抄も、数年後に拝読したときと、さらに十年後に拝読したときとでは、その深遠なる深さの体得に違いがでてくるであろう。
 大聖人御入滅の後、唯授一人・血脈付法された第二祖日興上人は、大聖人の広大無辺の大仏法を、いささかも違えることなく、令法久住されることに無量の辛労をつくされた。
 以来、法灯連綿と七百三十年のあいだ、厳護されてきた法水は、御当代御法主日顕上人猊下に受け継がれておられる。御法主上人の御説法を拝しながら正しく信行に邁進しゆくことが大切なのである。
 その信心と信念の軌跡こそ、観心本尊抄にお説きあそばされた「一念三千を識らざる者には仏・大慈悲を起し五字の内に此の珠を裹み末代幼稚の頸に懸けさしめ給う」との御本仏日蓮大聖人の大慈大悲にかなう信行学のたしかなる歩みであり、大聖人の所遺として、その大道を歩みゆくところに、最大なる栄光の信心と人生があることを確信すべきであろう。
15  ともあれ、戸田先生が、つねに厳しく、覚悟の指導をされた御書の一節は「をなじくは・かりにも法華経のゆへに命をすてよ、つゆを大海にあつらへ・ちりを大地にうづむとをもへ」であった。私もこの御書のとおり、挺身してきたつもりである。次代は、諸君の双肩にすべてがかかっていることを自覚されたい。
 この「法華経のゆへに」とは、諸君にとって最高最大の人生の誉れであり、舞台である。横には宇宙大、縦には万年尽未来際に広がる舞台なのである。妻子ある年齢になっても、この決意だけは失ってはならない。法のため、人のため、平和な世界のために活躍しゆく喜びを、つねにもたなければならない。
 ともかく、学会のためにつくすことが、とりもなおさず、宗門を外護することになり、また広宣流布を推進しゆくことにつうずるのである。
 諸君こそ、未来のすべてを開きゆく使命深き、広布、学会後継の本流であることを決意されたい。最後に、広宣流布の途上にあって、かりに犠牲となる人があったとしても、皆で残された家族を守りあっていける「伸一会」であることを願って、本日の話を終える。

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