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創価大学第4回卒業式 ”母校愛”と”信念の道”に生きよ

1978.3.17 「広布第二章の指針」第13巻

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3  生涯にわたる目標を
 そのさい、つねにそれぞれの立場でなんらかの目標なり課題をもつことが大切である。みずからの目標課題に向かって、ひたむきに生きている人は強く、いつ会っても満々たる生命力をたたえているものである。
 逆に、目標なき人生は、一見恵まれた環境にあるようにみえる場合であっても、どこか暗く、退嬰的な影におおわれているものだ。現代は、その暗影がことさら大きく広がっている時代である。
 それだけに諸君は、そうした時流の惰性に流されることなく、みずから選んだ目標に挑戦しつづける、意義ある青年時代を刻印していっていただきたい。
4  私の恩師戸田城聖先生がよく引きあいに出された本に、アレクサンドル・デュマの「モンテ・クリスト伯」があった。もとよりそれは、復讐をテーマにした物語であり、その理念の低いことはあえていうまでもない。しかしながら、一つのことを成し遂げるために、あらゆる苦難をはねのけていく執念にも似た意志の力は、だれびとの胸にも感動を呼び起こさずにはおかないであろう。
 そのなかで私は、非常に心をうたれたひとこまがあった。
 ご存知のように、エドモン・ダンテス青年はある謀略にかかり、十四年もの長きにわたりシャトー・ディフの牢獄に囚われの身となる。
 赦免の見通しがまったくないと知ったとき、彼は、絶望のあまり食を断って自殺しようとする。そのとき、同じ囚人のファリア師と遭遇し、謀略の秘密を教えられるわけだが、それとは別に、ダンテス青年は、ファリア師のもつ学識の驚くべき広さに驚嘆するのである。そして、ぜひ自分に学問を教えてくれるよう懇願する――。それから一年、生来の資質もあってか、無学でたくましいこの青年は、乾いた大地が水を吸い込むように学問を学びとり、別人のような変身をとげていくのである。
5  私が感動をおぼえたのは、一つの目標をもったときの人間の変わり方の激しさである。絶望の暗闇のなかで死のみを考えていたダンテスと、ひたぶるに学に打ち込む彼の姿との際立った対照は、目標をもつことの重要性をあまりにも鮮やかに示していると思うのである。
 どうか諸君は、それぞれ、自分らしい希望と目標とを、生涯もちつづけていただきたい。もとより目標、理想の浅深、高低も重大な問題であるが、若いときに奉じた課題と理想を一生涯にわたってもちつづけることが、人間としての勝利の鍵だからである。
 たしかに、ガルブレイス教授のいう、なにごとも「不確実」な時代にあって、一つの目標を定め、もちつづけることは、なかなか困難なことである。しかし、諸君は若いし、ともかくなにごとかを課題に生きている。そのなかで、膚で感じ、つかみとったものを大切にしていっていただきたい。
 懸命な努力のなかで鍛えられた力というものは、どんな苦難に遭遇しても屈することのない、驚くべき発条となっていくものだからである。
 どうか、ヤスパースもいったように「どんな状況も、絶望的なものではない」と決めて、青年らしく、大きな心で、社会に貢献していってほしい。
6  母校愛をもて
 ここで母校愛ということについて申し上げておきたい。私は、この言葉がもつ清新な響きが非常に好きである。
 諸君の大部分は、これから社会に入っていく。一流会社に勤務する人もいるし、そうでない人もいるであろう。また、家業を継いでいく人もいるかもしれない。それは、たとえていえば、いろいろな人がさまざまな船に乗って、社会という海原に旅立つようなものである。
 しかし、創価大学のキャンパスに集い、学んだ経験は、永遠に一つである。それは、ことあるごとに諸君の心に、同窓の快い響きを蘇らせていくであろう。
7  ヒルトンに「チップス先生さようなら」という小説がある。ご存知と思うが、ブルックフィールド校という、イギリスのあるパブリック・スクールに、長いあいだ勤めつづけた一教師の生涯を、回顧風に描いた作品である。
 四代もの校長のもとで教鞭をとりつづけた彼は、酒落のわかる感覚と、生徒の名前と顔をすぐ覚えてしまうことを特技とする名物教師である。彼のまわりはつねに笑いにつつまれている。
 中年になって、山登りで知りあった若い娘と結婚するが、幸福も束の間、出産のさい、母子ともに帰らぬ人となってしまう。しかし、母校と生徒たちへの彼の愛情は変わらない。ある校長は、彼を排斥しようとするが、生徒や父兄からたちまち反対運動が盛り上がり、沙汰やみになってしまう。六十五歳で退職するが、校門の前に下宿を探し、愛する生徒たちの登校、下校の姿を見守りながら、ときどきお茶に呼んで昔話などに興じている、第一次大戦中は、若い教師の出征などもあってふたたび教壇に戻った彼は、懐かしい教え子たちの戦没者名簿を涙とともに読み上げるという、つらい役目まで引き受けざるをえない。
 戦後、校長になる機会があったにもかかわらず、適任ではないと断って、もとの下宿生活に戻り、悠々自適の晩年を送っている。そして、八十歳を超えた一九三三年のある晩秋の日、何千人もの子供たちの惜別の大合唱を夢のなかで聴きながら、眠るようにして人生を閉じたのである。
 私は、チップス先生の生涯を思い描くたびに、教える方も、学ぶ方にとっても、母校というものは、ほんとうによいものだと痛感されてならない。おそらく生徒たちも、母校の看板を背に、ときどき懐かしいチップス先生の顔など思い出しながら、多くの分野で活躍していったにちがいない。
 ウェリントン将軍が、ワーテルローの戦いでナポレォンを破ったさい、彼の出身校であるイートン校をさして「ワーテルローの勝利の因は、イートンの校庭にあった」といったのは有名な話である。
 パブリック・スクールの時代に、いかに事に処する勇気や忍耐力、努力の精神が養われるかを示すエピソードであろう。
8  ともあれ、純粋で感情の起伏の激しい青春期に、喜びや悲しみをわかちあい、ともに鍛えあった思い出は、永遠に消えるものではない。「どこどこの学校出身」という誇りは、社会の幾多の荒波を乗りきっていく強い支えとなっていくにちがいない。
 諸君も、創価大学出身であるという誇りを、生涯、忘れてはならないと思う。いな、諸君は、生涯にわたって創価大学出身であるという目で見られていくであろうことを運命と思ってあきらめていただきたい。
 創価大学は若く、新しい大学である。社会的評価もまだ定まっていないといってよい。したがって、諸君たち一人ひとりの今後の姿を通して、創価大学への評価が決まってくるであろう。
 どうか、創価大学の草創期を築いてきた先駆である諸君は、率先して後輩の道を切り開いていっていただきたい。
 そのことを心よりお願いして、私の卒業記念の祝辞とさせていただく。

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