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日蓮大聖人・池田大作

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11・18記念代表協議会  

2008.11.19 スピーチ(聖教新聞2008年上)

前後
2  192カ国・地域の友とご一緒に、創立78周年を晴れ晴れと飾ることができた。
 学会本部にも、多くの来客の方々、そして同志の皆様方が、連日、祝賀にお越しくださっている。
 一年また一年、わが創価学会は「平和の柱」として、「文化の大船」として、「教育の眼目」として輝きを増している。信頼を広げている。
 今、本部周辺の整備も進んでいる。日本中、世界中で、広布の城を立派に総仕上げしていく。すべて大切な同志の皆様のためである。
 見違えるような、壮大なる発展の未来を楽しみにしながら、私とともに、皆、元気で、生きて生きて生き抜いていただきたい。
 きょうから、いよいよ「創立80周年」へ、全同志が、さらに功徳の陽光を浴びながら、人類の希望のスクラムを、一段と強め広げ、朗らかに、また朗らかに前進してまいりたい。
  創立日
    諸天につつまる
      創価城
3  「幸福博士」を育てる学校!
 はじめに、全国、そして全世界の個人会館、個人会場を提供してくださっているご家庭に、改めて心より感謝申し上げたい。
 日蓮大聖人は仰せであられる。
 「心ざしあらん人人は寄合て
 「互につねに・いゐあわせて
 独りよがりで、わがままな仏道修行など、あり得ない。
 いつも集い合い、語り合い、励まし合って、広宣流布へ進みゆくことが、正しい一生成仏のリズムである。
 そのために、一番大事な場所が、地域の法城である。
 ここから「勇猛精進」の力が生まれる。
 ここでこそ「異体同心」の団結が深まる。
 御書には、「法妙なるが故に人貴し・人貴きが故に所尊し」との法理が示されている。
 妙法の友が喜び集う個人会場が、どれほど尊貴な場所であるか。
 牧口先生も、座談会の会場となるご家庭を、それはそれは大切にされ、心を砕かれていた。
 戸田先生は、地域の拠点である個人会場こそ「大切な広宣流布の発信地」であり「人材錬磨の偉大なる『城』」であると讃えられた。
 勇んで、わが家を広宣流布の法城とされ、同志を護り、人材を育てゆかれる、その崇高な献身に「冥の照覧」は絶対である。
 御書には、伝教大師の言葉「家に讃教の勤めあれば七難必ず退散せん」が引かれている。
 いわんや、地域の破邪顕正の城であられるご家庭の福徳は、無量無辺であり、一家一族が厳然と護られていくことは、絶対に間違いない。
 法華経には、明快なる因果律が説かれている。仏法が語られる場で、人に座を勧める真心は、未来に、帝釈天・梵天・転輪聖王という大指導者の座を得る功徳になるのだ。
 個人会場は、三世永遠にわたって、「幸福の博士」を、「福運の博士」を、「使命達成の博士」を、「勝利の博士」を育て広げていく学校でもある。
4  戦時中も座談会
 私の妻の実家である白木宅も、草創期から個人会場であった。
 牧口先生をお迎えした、戦時中の座談会は、特高刑事から何度も「中止!」と制止されるなか、一歩も退かずに行われた。
 そのなかで、牧口先生は「法華経は日輪のごとし」等と叫び切っていかれた。
 この「死身弘法」「不惜身命」の師子王の姿を、一家は深く強く生命に焼きつけたのである。
 今なお多くの同志が、白木宅では、どんな時でも、「よく来たね。よく来たね」と笑顔で迎えてくれたと、感謝を込めて振り返っておられる。
 宗教社会学の第一人者であられたオックスフォード大学のウィルソン博士は、SGI(創価学会インタナショナル)の運動の魅力として──いわゆる寺院制度から解放された在家団体であること、そして、座談会等を通し、地域の会員が相互に励まし合っていることなどを挙げておられた。
 地域の共同体の再生という点からも、個人会場の存在は、実に大きいと言えよう。
5  礼儀を尽くして
 御書には明言されている。
 「昼夜に法華経をよみ朝暮に摩訶止観を談ずれば霊山浄土にも相似たり・天台山にも異ならず
 法華経の行者であられる大聖人が妙法を唱え、仏法を語るところは、どんな場所であっても、尊極なる仏土なのである。
 御本仏に直結して、妙法をともに唱え、大仏法を学び合い、広宣流布を推進する会場は、この本義の上から、すべて霊山浄土に通ずる。本有常住の寂光土となる。常楽我浄の宮殿となる。個人会場は、それほど意義深い。
 だからこそ、個人会場を使わせていただく際には、幹部をはじめ、皆が最大に礼儀を尽くしていかねばならない。誠心誠意、感謝を表していくことである。
 トイレなども、心して、きれいに使わせていただくことだ。受験生や病気のご家族への心づかいなども、忘れてはならない。さらに、自転車の駐輪にも気をつけ、出入りの際の私語を慎むなど、近隣に迷惑をかけないマナーが大切である。
 仏法は「人の振舞」が根本であるからだ。
6  ペルーに幸の光
 先日、南米ペルーSGIのシマ理事長から、うれしい報告があった。
 ペルーでも、首都リマを中心に、同志が福運を積み、個人会場を提供してくださるご家庭が、どんどん増えている。地域の灯台として、明るい信頼と友情の光が、いや増しているというのである。
 法華経には、「仏子の 諸の塔廟とうみょうを造ること 無数恒沙にして 国界を厳飾ごんしきし」とも説かれている。
 御本尊のもと、妙法の同志が集う個人会場、また会館のあるところ、地域にも、国土にも、希望と安穏と繁栄が広がる。ここに「立正安国」の具体的な実像がある。
 創立80周年へ、あの地にも、この地にも、後世の人が仰ぎ見る、堂々たる創価の人材城を、ともどもに築き、荘厳してまいりたい。
7  命をかけてこそ
 ともあれ、世界192カ国・地域に広がった学会を、牧口先生、戸田先生が、どれほど喜んでおられるであろうか。
 未来に永遠に残るものは、手抜きや要領では決して築くことはできない。
 人間が命をかけたものだけが不滅の輝きを放つのだ。
 私の好きなお隣の韓国の格言に「精魂こめた塔が崩れるものか」とある。
 わが創価の平和と文化の高き塔は、牧口先生、戸田先生、そして私の三代の師弟が、命がけで築いた、人類の「希望の宝塔」なのである。
 大事なのは創価学会である。この仏意仏勅の組織を、未来永遠に護り抜いていかねばならない。それが、最高幹部の責任であり、使命であることを忘れてはいけない。
8  青春の苦闘
 私は、わが青春のすべてを捧げて戸田先生をお護りした。
 戸田先生の会社で働き始めたのは21歳のとき。間もなく、経営は悪化し、事業は苦境に陥った。
 連日、押し寄せる借金取り。次々と去っていく社員たち。
 私も体が弱く、肺病を患っていた。無理がたたり、喀血を繰り返した。
 当時、学会を財政面で支えておられたのは戸田先生であった。
 先生の事業を護ることが、広布を護り、学会を護り、同志を護ることになる。そう心に決めて、私は、事業の再建に奔走した。
9  どん底の中で
 あれほど剛毅な先生も、さすがに疲れておられた。
 幾晩も、先生のご自宅に呼ばれた。先生の様子が心配で、家の前に一晩中、立ち続けたこともあった。
 何もかも、先生のため。何があっても先生に、指一本、触れさせてなるものか。先生には大手を振って歩いていただくのだ。
 そう心で祈り、叫びながら、ただただ先生のために、死にものぐるいで活路を開いてきたのである。
 これほどに師匠を護った弟子は世界にいないであろう。それが私の青春の栄光である。
 仏法の真髄は師弟なのである。
10  戸田先生と二人して、借金を返済しに行った帰り道──。
 車もなく、夕暮れの町を歩いた。
 私は、将来、必ずや先生をお乗せする車を買い、立派なビルも建てることを約束した。
 先生は「そうか、そうか」と、うれしそうにうなずいておられた。
 師匠と弟子の二人きり。誰も助けてくれない。私しかいない。
 そのどん底の中で私は誓ったのである。
 「必ず、先生を世界の先生にします!」「先生に喜んでいただける学会をつくります!」「先生を苦しめた人間とは絶対に戦い抜きます!」と。
 私は真剣だった。言ったことは必ず実行した。最初から容易にできたことなど、何一つなかった。
 現在の学会の驚くべき世界的な大発展も、すべては、偉大なる「師匠の薫陶」と、それに応えんとする「弟子の誓願」の中から築かれてきたのである。
 永遠に光る創価の師弟の満足の姿が、ここにあった。
 これが信心である。これが学会である。これが仏法である。
 この厳粛な師弟を軽く見て、大変なことは人にやらせ、できあがったものの上にあぐらをかくような幹部には絶対になってはならない。そうしたずるい人間を、断じて許してはならない。
 将来のために強く申し上げておきたい。
11  戸田大学の誇り
 一から百まで、師弟でつくってきた学会である。師匠と決めた以上、お護りし抜くのが弟子の道である。
 行きたかった夜学も断念して、先生の側でお仕えした。
 その代わり、先生は、死ぬまで私に、万般の学問を個人教授してくださった。
 私は朝一番に出勤した。「朝の勝利」から出発した。
 戸田先生は「大作、早いな」と一言。
 そして会社の始業前の時間を使って、「戸田大学」の授業が始まる。日曜日も毎回、ご自宅で教わった。
 この薫陶のおかげで今の私がある。一言一句が遺言のような講義であった。あらゆる分野の一級の人物と対等に語り合える力をつけていただいた。ありがたい先生であられた。
12  不二の祈りに力と慈愛が!
 御聖訓に仰せである。
 「弟子と師匠が心を同じくしない祈りは、水の上で火を焚くようなものであり、叶うわけがない」(御書1151㌻、通解)
 弟子が師匠に心を合わせてこそ、祈りは叶うのだ。
 第二代会長になられた戸田先生は、生涯の願業として「75万世帯」の達成を掲げられた。
 私は立ち上がり、蒲田支部、また文京支部の皆さんと共に、拡大の突破口を開いた。
 勝てるはずがないと言われた「大阪の戦い」も、敬愛する関西の同志と私が、一致団結して勝ち取った栄光の歴史である。
 この勝利の根本の力は何であったか。
 それは「師弟不二の祈り」であった。
 師弟の心が一致した祈りには、限りなく大きな「力」がある。そこに、汲めども尽きぬ勇気と慈愛が湧くのである。
13  「弟子を救え!」
 昭和32年(1957年)7月、私は、大阪の地で無実の罪で牢獄につながれた。
 検事による取り調べの最中に、手錠をかけられたまま、屋外を見せしめのように歩かされたことがあった。
 権力とは、そこまで卑劣なのか。関西の同志は、怒りに震えた。
 さらに、この話が戸田先生のもとに報告されると、先生は、激怒して言われた。
 「俺の一番大事な弟子だ」「すぐに大作を釈放させろ」
 そして幹部や弁護士と断固たる対応を協議された。わが分身の弟子のために、わが身を犠牲にすることも覚悟しておられた。これが師弟の真実の歴史である。
14  戸田先生との思い出は、本当に尽きることがない。
 先生が最後に駿河台の日大病院に入院された際も、私が一切の手配をし、お供をさせていただいた。
 最後の最後まで先生とご一緒に戦わせていただいた。先生と同じ時間を過ごすことができた。弟子として最高の誉れである。
15  対談集に反響
 このほど、文化人類学の世界的な学者であるヌール・ヤーマン博士(ハーバード大学教授)と、私の対談集『今日の世界 明日の文明──新たな平和のシルクロード』(河出書房新社)の英語版が、英国の名高い出版社I・B・トーリス社から発刊された。
 ヤーマン博士はトルコの出身であられる。
 本年10月、ドイツで毎年恒例の世界最大の書籍見本市「フランクフルト・ブックフェア」が行われた。
 今回のゲスト国はトルコであり、同国のアブドウッラー・ギュル大統領や、対談でも話題となったノーベル文学賞作家のオルハン・パムク氏らも出席された。
 そうした中、ヤーマン博士と私の対談集は、大きな反響を広げたとうかがった。大変に光栄なことである。
 英語版の発刊を、ヤーマン博士も大変に喜んでおられる。
 ハーバード大学の関係者をはじめとする知性の方々とも、この本を教材として、新たな対話を広げていきたいと述べておられる。
 〈ヤーマン博士は語っている。
 「この対談は、池田SGI会長の質の高い質問によって、より洞察にあふれたものとなりました。池田会長は、トルコ、イスラム、そして文化人類学に対する詳細な知識を持っておられます。そして、それに対し、常に本質を突いた発言をされております。
 また対談は、多くのテーマについて、会長が人間の視点に立ち、詩的な要素を含められることによって、実に魅力のあるものとなっております。特に、すべての生命を尊重する会長の思想は素晴らしいものです。それはまた、文化人類学の思想でもあります」
 「池田会長が日常から決して離れることなく、仏教を実践されている姿に、深く注目しました。また、創価学会が宗門から離別したことに、私は大きな価値があると考えております。さらに、教条主義から離れ、人間主義を志向された会長の卓見にも、深い共感を覚えます」〉
 第一級の識者との「対談」も戸田先生のご遺命であった。先生は私に言われた。
 「これからは対話の時代になる。君もこれから、一流の人間とどんどん会っていくことだ。“人と語る”ということは、“人格をかけて戦う”ということであり、それがあってこそ、真の信頼を結び合えるんだよ」
 欧州統合の父クーデンホーフ・カレルギー伯爵、そして20世紀を代表する歴史学者トインビー博士との「対談」を起点として、連載中、また準備中のものも含めると、世界を結ぶ対談集は約70点に及ぶ。すべて人類の未来に贈りゆく宝である。
16  通訳・翻訳に感謝
 言語の違いを超えた対話は、名通訳、名翻訳家の方々との交響曲である。
 大翻訳家のリチャード・ゲージ先生には、トインビー博士との対談以来、本当にお世話になっている。
 ゲージ先生をはじめ、ご尽力いただいている、すべての方々に、この席をお借りして、心から御礼申し上げたい。
 ゲージ先生には常々、温かいご理解をいただき、感謝にたえない。
 〈ゲージ氏は、次のように語っている。
 「今まで池田会長の対談集の翻訳に30年以上、携わらせていただき、私自身、一西洋人として多くのことを学ばせていただきました。一番感動することは、池田会長が、教育、哲学、科学、文学、芸術、政治と、実に幅広く、さまざまな分野の学者、文化人、政治家の方々と対談されていることです。
 これは、あらゆる人々を受け入れ、また、あらゆる人々に受け入れられる人格と、幅広い知識を備えた池田会長であるから、できることだと思います。
 西洋では、プラトンの対話形式の著作がいくつかありますが、それらは同じ立場の人による対談であり、全く立場の異なる、異文化に属する人同士のものではありません。その意味では、会長の対談は、他に例を見ないユニークなものです。
 会長は、東洋の普遍的な英知を、現代にいかに活用できるかを、さまざまな角度から展開されております。
 ますます専門化の傾向が強くなり、全体観に立って物事を判断できる人が少なくなっている現代社会において、常に全体観に立った視点を与えてくれる池田会長の対談は、極めて重要であります。
 読者は、そこから人類が直面する多くの難題に対する、解決のためのヒントを見いだしていけると思います」〉
17  学会は人類の宝
 この一年、月刊誌「第三文明」で連載を続けてきた、中国の歴史学者である章開ゲン先生との対談「人間勝利の世紀をめざして」は、12月号をもって終了した。
 「歴史」「文化」「教育」、そして中国と日本の新しい友好の道について、さまざまに有意義な語らいを重ねることができた。
 とくに最終回では、これからの21世紀、さらに22世紀を見つめながら意見を交換した。
 章先生は、この激動の時代においても、未来への希望を堅持しておられる。
 その根拠は、いったい何か。その一つとして、章先生は語ってくださった。
 「創価学会の皆様は、人類への広い慈悲の心をもって、平和と友好のために献身的な行動を貫いておられます。まさに創価学会は、人類と世界にとって、何ものにも代え難い無上の宝の存在です。
 今後とも、創価学会は、ますます発展していかれることでありましょう。ゆえに私は、22世紀の世界は、きっと現在よりも素晴らしいものになると確信しています」
 中国の史学大師と仰がれる碩学が、これほどまでに絶大なる期待を寄せてくださっている。私たちは誠実にお応えしてまいりたい。
18  御聖訓には仰せである。
 「日蓮にりて日本国の有無はあるべし、譬へば宅に柱なければ・たもたず人に魂なければ死人なり、日蓮は日本の人の魂なり
 戸田先生は、この御文を引かれて、こう師子吼された。
 「妙法を流布している創価学会なくして、日本の真の繁栄はない。創価学会こそ日本の柱であり、魂である」
 この誇りと責任と使命をもって、私たちは、地域のため、社会のため、世界のため、人類のため、平和と正義の対話を闊達に広げてまいりたい。
19  戸田先生は“励ましの指導者”であった。
 経済苦、病気、不和……現実のありとあらゆる苦悩に挑む友を、生命を揺さぶるように激励していかれた。
 先生は言われた。
 「人生、行き詰まった時が勝負だぞ!
 その時、もう駄目だと絶望し、投げやりになってしまうのか。まだまだ、これからだと、不撓不屈で立ち上がるのか。
 この一念の分かれ目が勝負だ!」
 「君の想像を超えた、実に見事な解決ができるだろう。それには題目をあげきることだ。いかなることでも、変毒為薬できないわけがないのです」
 そして、師の厳愛に立ち上がった弟子は、勝利の実証を示していったのである。
 わが人生を、嘘偽りなく歩む人。御本尊に照らして、わが信ずる「本当の道」を歩み抜く人。その人が勝利者である。「心こそ大切」なのだ。
 立場や役職に左右され、“自分だけが偉い”などと思い込んでしまえば、大きな間違いを犯すことになる。
 仏法上、「皆が偉い」のである。「皆が大切」であり、皆が「かけがえのない役割」を持っている。
 皆、同じ学会員であり、「異体同心」で進んでいくのだ。
 この点をはっきりしなかったら、学会の清浄な世界は汚れ、大変なことになってしまう。
20  「生老病死」の解決を目指して
 さらに、戸田先生は力説なされた。
 「政治の次元だけでも、経済の次元だけでも、科学の次元だけでも、本当の幸福は築けない。
 誰もが避けることのできない、生老病死という根本の問題を直視して、解決している真の宗教を、根底にせねばならぬ」
 「生老病死」の打開──。人類は、そのための哲理を、真剣に求めている。
 世界各国、各地で、創価の人間主義に深く共鳴する、新しい指導者も躍り出ている。
 日蓮大聖人は、「今日蓮が時に感じて此の法門広宣流布するなり」と仰せになられた。
 私たちが声も高らかに「常楽我浄」の法理を語りゆくことを、時代は渇仰しているといって過言ではない。
  偉大なる
    師弟誓願
      創立日
21  言論の勇者たれ
 本日は、“創価の薬王菩薩”たる、ドクター部と白樺の代表も出席されている。いつも、本当にご苦労さまです。
 私たちの実践の魂である「不惜身命」。それは、法華経に登場する薬王菩薩が発した言葉である。
 不惜身命──これこそ、大聖人正統の誉れの学会精神である。
 また、きょうは創価の言論戦を担う代表も参加してくれている。
 法華経に説かれる菩薩の中に、「大楽説だいぎょうせつ菩薩」がいる。薬王菩薩とともに「不惜身命」を誓っている。
 「大楽説」とは、“偉大なる弁説の力をそなえた”との意味であり、言論の勇者といってよい存在である。
 重要な場面で、皆の疑問を察して、師に向かって問いを発する役割も担っている。
 どうか一人一人が「不惜身命の闘士」として、今こそ勇敢に立ち上がっていただきたい。
22  「菩薩行には魔が起こる」
 日蓮大聖人は、文永8年(1271年)の11月、法華経に説かれる通りの流罪の法難を受け、佐渡の地にあられた。
 この月、大聖人は、「命限り有り惜む可からず遂に願う可きは仏国也」と仰せである。
 そして、このまさに600年後、佐渡を擁する新潟で生誕されたのが、初代会長の牧口先生である。
 1942年(昭和17年)11月、創価教育学会の総会で、牧口先生は言われた。
 「信ずるだけでも御願いをすれば御利益はあるに相違ないが、ただそれだけでは菩薩行にはならない。
 自分ばかり御利益を得て、他人に施さぬような個人主義(利己主義)の仏はないはずである。菩薩行をせねば仏にはなられぬのである」
 「自分の一個のために信仰している小善生活の人には決して魔は起らない。之に反して菩薩行という大善生活をやれば必ず魔が起る。起ることを以って行者と知るべきである」
 日蓮仏法の真髄をそのまま、寸分違わず実践されたのが、牧口先生であった。
 牧口先生、戸田先生のお二人は投獄され、牧口先生は獄死された。私もまた不当逮捕された。
 師のために戦った、創価の歴史である。
 学会から、この崇高なる「師弟」がなくなったら、もはや学会ではない。あまりにも明らかな道理だ。
 「本物」の信心に立てば、わかることである。
 「本物」の人間かどうかは、心で決まる。頭のよしあしなどではない。
 うわべをつくろい、策を弄する人間、増上慢の人間が、「師弟」を破壊する。広布の団結を破壊する。それこそ、大聖人が厳しく戒められた「城者として城を破る」者にほかならない。
23  “悪鬼”をも広布の味方に
 1944年11月18日、朝6時過ぎ。創価の父は「不惜身命」の大精神を貫き、巣鴨の東京拘置所で崇高な生涯を閉じられた。
 直弟子の戸田先生は、身を焼いて供養した薬王菩薩になぞらえて、「(牧口)先生の死こそ、薬王菩薩の供養でなくて、なんの供養でありましょう」と叫ばれている。
 「日本は、この正義の大偉人を殺した!
 私は必ず仇を討つ!
 一歩も退かず、大折伏をして、牧口先生の仇を討っていくのだ」
 ──これが戸田先生の誓願であられた。そしてまた、不二の弟子たる私の誓願である。
 戸田先生を守って、私の右に出る者はいなかった。先生のそばには、信用できない者もいた。私に対して「信じられるのは、お前だけだ」と言われる時もあった。
 私は、師である戸田先生をだれよりも尊敬し、社会から尊敬される存在へと宣揚していった。約束したことは絶対に成し遂げるのが、私の信条である。
 法華経には「魔及び魔民有りと雖も、皆仏法を護らん」とある。たとえ悪鬼、魔民であろうとも、広宣流布の味方にして、生かしきっていくのが創価の指導者だ。私はこの決心で半世紀以上、闘ってきた。皆さんは、心を魔に食い破られてはならない。
24  師の後を継いで
 私は、戸田先生の後を継いだ者である。この人生のすべてを、創価学会に尽くしてきた。
 広宣流布という、世界一尊い仕事の長として、この人生を歩んできた。かけがえのない同志とともに、汗水流して働いてきた。
 いわば“師弟の真髄”を生きてきた人間であると自負している。
 とともに、数えきれないほどの世界の指導者たちと、真剣に対話を重ねてもきた。人間と社会の実相を知っているつもりである。
 インチキな人間なのか、格好だけなのか。慈愛の心か、軽蔑の心か。一つの言葉、一つの振る舞いから、その人のことがわかる。透徹した信心の眼は、骨の髄まで、腹の底の底まで見抜くことができるものだ。
 また、そうでなければ、これだけの堂々たる学会をつくることはできなかっただろう。
 真実の師弟が築いた学会である。この事実を、責任ある広布のリーダーは軽んじてはならない。これは決して自讃して言っているのではない。将来の学会を護る人々のために、真実を、正直に言っておきたいのである。
 人間の世界は恐ろしいものだ。戸田先生が苦境に陥り、学会の理事長を辞めた時にも、信じられる人間は、あまりにも少なかった。
 一人だけでもいい。私は、“本当の弟子”といえる人間を育てておきたいのである。
25  「真実の学会」は「わが心の中」に
 私は、ほかのだれよりも強く、広布の同志を守ろうとした。
 それゆえに、御聖訓の通り、だれよりも多く迫害を受けてきた。
 いわれなき非難中傷を浴びせられ続ける苦しみは、実際に体験した者でなければ、わからないものかもしれない。
 なかには、大幹部でありながら、そうした状況に慣れてしまい、私が矢面に立つことが当然だと思い始める者も出た。
 同志への慈愛も、魅力もなく、ただ威張るだけで自分のことしか考えない卑劣な輩もいた。そうした忘恩の人間が皆、惨めな人生をたどっていることは、皆様がよくご存じの通りである。
 しかし、今から思えば、すべて意味のあることであった。そうした動きが生じることによって、広宣流布の進むべき道が、いよいよはっきりと見えるようになったからだ。
 ともあれ「真実の創価学会」は、師弟に生き抜いた「わが心の中」にある。
 師弟の「本流」を、諸君には知っていただきたい。そして、ますます勢いよく、さらに素晴らしき学会を、ともどもにつくっていきたい。
 薬王菩薩が、自身の生命を燃焼させた光明は、1,200年にわたって輝き続け、世界を照らしたと説かれている。
 学会は、創立78周年を勝利で迎えた。
 創価の師弟の、不惜身命の魂が継承されていく限り、学会は永遠に光り輝いていくことができると申し上げておきたい。
26  病に打ち勝つ「究極の力」
 寒さが厳しさを増してきた。皆、風邪などひかないように、健康第一の一日一日であっていただきたい。
 もちろん、どんなに気をつけていても、病気になることはある。仏法が「生老病死」の四苦を説いているように、一面では、人生は病との闘いといえるかもしれない。
 「信心」は、その闘いに打ち勝っていく究極の力なのである。
 日蓮大聖人は、病気の報告をした門下の太田乗明に対する御手紙の冒頭で、こう記されている。
 「御痛みの事一たびは歎き二たびは悦びぬ
 あなたが病気になったことを一度は嘆きましたが、それによって、さらに仏法を深く学び、実践していけるのだから、私はむしろ喜んでいます──そうした深い御心からの御言葉と拝される。
 大聖人が、愛弟子の病気を深く案じられ、平癒を祈念してくださったことは、いうまでもないだろう。
 その上で、信心根本に闘うなら、必ず病気に打ち勝っていけると励まされたのである。
 妙法は、何があっても変毒為薬できる、不可思議の法である。
 大聖人は「この病は仏の御はからいであろうか。そのわけは、浄名経、涅槃経には病がある人は仏になると説かれている。病によって仏道を求める心は起こるものである」(同1480㌻、通解)と仰せである。
 病気をしたからこそ、求道心を奮い起こしていける。大きく境涯を開くことができる。また、病気の人を力強く励ませるようになる。
 信心の眼で見るならば、すべてに深い意味がある。そして、強き信心に生き抜くならば、必ず宿命転換を成し遂げ、勝利の人生を開いていくことができるのである。
 健康・長寿の指針
 ①張りのある勤行
 ②無理とムダのない生活
 ③献身の行動
 ④教養のある食生活
27  更賜寿命の功力
 牧口先生は、弟子たちをこう励ましておられた。
 「“この病気を、必ず変毒為薬してみせるぞ、健康という大福運、大功徳を開くのだ”と確信し、決意して信心を続けていくことが大事だ。そのとき、病気が治るだけではなく、全快したときには、以前よりも健康になるのが、変毒為薬の妙法である」
 私も、若き日から病気との闘いを続けてきた自身の体験に照らして、その通りであると確信する。
 医師から「30歳までもたない」といわれた病弱な私が、このように自在に世界広宣流布の指揮を執れるのは、妙法の「更賜寿命」の功力の証明と思っている。
 ともあれ、これまでも折々に語ってきたが、健康の維持・促進の基本として──
 ①張りのある勤行
 ②無理とムダのない生活
 ③献身の行動
 ④教養のある食生活
 ──等々の日常生活における心がけが重要である。
 健康は深き「祈り」が根本である。「智慧」が大切である。
 大聖人は、「法華経と申す御経は身心の諸病の良薬なり」と宣言なされた。
 一騎当千のドクター部、慈愛輝く白樺の皆様方とともに、全同志の健康長寿を真剣に祈り抜きながら、自他ともに頑健に、創立80周年へ勇躍の前進を決意し合いたい。
28  「卑しい人間にはなるな」
 激動の幕末期に活躍した医学者・緒方洪庵(1810〜1863年)。彼は、門下生への手紙で綴っている。
 「師弟の関係は生涯にとりのぞいてはならぬ大切なこととおもいます」(緒方富雄・梅渓昇・適塾記念会編『緒方洪庵のてがみ その5』菜根出版)
 緒方洪庵は、大阪に「適塾」を創設して、日本全国から集った逸材を薫陶した。
 賢明な八重夫人も、青年たちの母代わりとなって親身に世話をした。
 門下の一人・福沢諭吉は、この八重夫人を“私がお母さんのように敬愛している大恩人”と何度も語っていた(梅渓昇著『緒方洪庵と適塾』大阪大学出版会)。
 この緒方夫妻のもとから、千人を超える愛弟子たちが巣立ち、自らの使命とする場所で、師の精神を体現して、近代日本の医学・学術の発展を大きく開いていったことは、あまりにも有名である。
 私も関西の同志とともに、大阪・北浜の適塾の史跡を訪れた思い出がある(昭和61年=1986年)。
 そこには、塾生の名前、出身地、入塾年月日が20年にわたって連綿と記された「姓名録」が厳粛に留められていた。
 師・洪庵は、弟子たちが塾を出た後も、多くの手紙を送り、心を込めて激励を続けた。
 弟子たちもまた、近況や医療に関する質問、御礼の報告等を、師のもとへ送り届けた。
 たとえ、物理的な距離は離れていても、師弟の心は、揺るぎなく結ばれていたのである。
 洪庵は、塾を巣立ちゆく門下生に、「事に臨んで賤丈夫せんじょうふ(=心のいやしい卑劣なおとこ)となるなかれ」(同)などの指針を贈っている。
 さらに門下生への手紙には、「どうぞあなたは力をつくして道のため、世のためご勉強してくださるよう祈ります」(前掲『緒方洪庵のてがみ その5』)等と書き送っている。
 「世のため」「(医学の)道のため」「人のため」──ここに、適塾の師弟を貫く精神がある。
29  どこまでも庶民のために
 こうした「医学をもって人を救う」という緒方洪庵の思想が表れているのが、12カ条にわたる、有名な「扶氏医戒之略」である。
 その一部を紹介すると──。
 「医の世に生活するは人の為のみ、おのれがためにあらずということを其業の本旨とす。安逸を思わず、名利を顧みず、唯おのれをすてて人を救わんことを希うべし」
 「病者に対しては唯病者を視るべし。貴賤貧富を顧ることなかれ」
 「学術を研精するの外、尚言行に意を用いて病者に信任せられんことを求むべし」
 「世間に対しては衆人の好意を得んことを要すべし。学術卓絶すとも、言行厳格なりとも斉民の信を得ざれば、其徳を施すによしなし」(前渇『緒方洪庵と適塾』、現代表記に改めた)
 自分のためではない。患者のためである。
 地位や財産ではない。人間のためである。
 どこまでも「人間としての振る舞い」を重要視し、患者からの「信頼」、人民からの「信用」を何より大切にした信念が伝わってくる。
30  自分が礎に
 緒方洪庵の著名な門下生の一人に、近代日本の「医療福祉の祖」「衛生事業の創立者」と讃えられる、長与専斎(1838〜1902年)がいる。
 健康の保全や、疾病の予防・治療などに取り組むことを「衛生」として世に普及させた人物でもある。
 長与専斎は、神奈川の鎌倉でも、保養所の建設、海水浴場の開設など、人々の健康のために先駆的な事業を展開した。
 じつは、鎌倉のSGI(創価学会インタナショナル)教学会館の敷地には、長与家の別荘があった。
 ここは、専斎の子息で作家だった長与善郎よしろうをはじめ、近代日本で人道主義を掲げた「白樺派」の文学者、文化人が集い、対話を重ねた地でもあった。
 ところで、長与専斎は生来、病弱であった。そのため、自分は衛生事業の先駆となって道を開ければよい。あとは、後継の人々が大成してくれるにちがいないとの思いで戦った。
 彼は綴っている。
 「おもうに余は幼年の頃より多病羸弱るいじゃくにして気力も薄かりければ、衛生の事を思い立ちし初めより自らその成功に居らんなどのことは思いもよらず、ただその端緒をだにひらきたらんには、後継おのずからその人ありて大成の功をまっとうする時もあるべしとて、さては志を起こしたる」(小川鼎三・酒井シヅ校注『松本順自伝・長与専斎自伝』平凡社)
 人の労苦の上に、安住するのではない。
 むしろ自分が労苦を一身に引き受けて、道を開く。大成する栄誉は後輩に委ねていく。ここに、人間としての崇高な生き方がある。
 33年前、SGIの発足の際、集った各国の尊き先駆者たちに、私は申し上げた。
 「皆さん方は、どうか、自分自身が花を咲かせようという気持ちでなくして、全世界に妙法という平和の種を蒔いて、その尊い一生を終わってください。私もそうします」
 この一念で、私と世界の同志が戦い抜いてきたゆえに、今日のSGIの大発展がある。
 今、長与家ゆかりの鎌倉のSGI教学会館には、海外から多くの識者や同志が来訪され、千客万来の賑わいである。
 大聖人の御在世を偲びながら、地元の方々と有意義な交流を広げておられる。
 訪れた方々は、皆、心から喜んでくださっている。常に最高の真心で歓迎してくださる、鎌倉の同志に、この席をお借りして、御礼を申し上げたい。
31  不可能を可能に
 長与専斎は衛生の目的を、端的に「達者で長生きをする」(伊集院弥彦記『中央衛生会長与専斎君演説筆記』、現代表記に改めた)ことだと語っている。
 しかし、そのための伝染病の予防や、上下水道の整備といった事業は、人々の理解も、資金の確保も簡単には進まなかった。
 長与専斎は、こう述べている。
 「およそ達識遠見ある人の論説行為は、普通凡庸の思想以上に超過するが故に世俗の容るるあたわざるところとなり、意外のところに障害を蒙ること人間の常態にして、文明の世といえどもまた免るべからず」(前掲『松本順自伝・長与専斎自伝』)
 偉大な思想や行動は、俗世に受けいれられるどころか、苦難を蒙る。それが、人間社会の常であるという達観である。
 いわんや、法華経に「一切世間に怨多くして信じ難し(一切世間多怨難信)」等と説かれる通り、広宣流布の戦いは困難の連続である。
 長与専斎は綴った。
 「畢竟事の成敗は忍耐勇往の如何に存するものと謂うべし」(同)
 「忍耐」と「勇気」──ここにこそ、必勝の鉄則がある。
 破れない壁はない。我らもまた、「不可能を可能とする」不屈の精神で、断じて新たな歴史を勝ち開いてまいりたい。
32  私が、恩師・戸田城聖先生にお会いしたのは、19歳の時である。
 近代日本文学にも、数え19歳で、生涯の師匠との出会いを果たした文豪がいる。
 有名な泉鏡花である。師匠は、明治文壇の雄として名高い、尾崎紅葉であった。
33  「人として尽すべき道がある」
 師弟はともに、学会本部のある信濃町にほど近い、東京・新宿の神楽坂界隈に住んでいたことでも知られる。
 紅葉は、代表作『金色夜叉』に記した。
 紅葉と鏡花。この二人は文学史上、希有の師弟と謳われた。
 近代日本文学の新しい道を開いた尾崎紅葉。
 戸田先生の故郷・北陸の石川で生まれた泉鏡花は、青春時代、紅葉の作品を読み、深い憧れを抱く。
 「我日本ひのもとあずまには尾崎紅葉先生とて、文豪のおわするぞ。と崇敬日に夜に止む能わず」(『鏡花全集第28巻』岩波書店。一部、現代表記に改め、漢字をひらがなにした=以下同じ)
 「先生のお顔が見られたら、まあ、どんなに嬉しかろう」(「紅葉先生」、『明治文学全集18 尾崎紅葉集』所収、筑摩書房)
 求道の思いやみがたく、ついに上京して、尾崎紅葉の門を叩いたのである。
 1891年(明治24年)の錦秋の10月19日のことであった。
 そして鏡花は、四六時中、師匠の傍らで薫陶を受けることになる。
 師匠・紅葉は「玉磨かざれば光無し」(『紅葉全集第10巻』岩波書店)と綴った。
 訓練は厳しかった。朝晩の掃除。多くの来客の対応。師の外出のお供……。
 行き届かないところは、厳しく叱責された。他の弟子がやった失敗に対してまで、「なぜ、互に注意をして未然に過失を防いでやらないか、お前は同門に冷淡だ」(前掲「紅葉先生」)と指摘された。
 真の弟子に対する鍛錬とは、そういうものだ。
34  ふりがなを多く読者には謙虚に
 文章の薫陶も厳格であった。
 鏡花は、師・紅葉の原稿の口述筆記や清書もした。
 また紅葉は、弟子の文には、自ら直しを入れてくれた。
 弟子が自分の文章を、恐る恐る師のもとにお持ちする。すると「何だこれは」「もうちょっと書けそうなものだ」と一喝されることもあった。
 さらに、師匠は、字を丁寧に書くように、ルビ(ふりがな)を多く、適切にふるように等の細かい点も、重ね重ね注意した。
 「小事に似たれど小事ならず人たる者は万事にイケゾンザイ(=いいかげん)を慎むべき也」(『紅葉全集第12巻』岩波書店)と。
 印刷場で活字を組んでくれる人たちへの謙虚さ。
 読んでくれる読者への謙虚さ。
 それを叩き込んだのである。
 こうして、弟子は、人間としての振る舞い、文学者としての基本を学んでいった。
 一方、師匠をうまく利用して、わが身の栄達を得ようという心根の人間は、この薫陶に耐えられず、離れていった。
 泉鏡花は回想している。
 「自分の出世をする為の方便としたり或はその時限りの都合上で来たり、乃至自分の書いたものを早く活版にしたかったり、直ぐに原稿料を望んだようなものは、その(=先生の)お小言やその眼玉やに堪えなかったのです」(前掲『鏡花全集第28巻』)
35  文は気合で習う
 愛弟子・鏡花にとっては、師の薫陶がすべてであった。
 師を心底から崇敬し、師のためなら水汲みでも何でもして働かせていただくという決心であった。見栄や体裁など、かなぐり捨てて仕えた。
 鏡花は、その心意気を、文章は「朱筆より気合で習う」(同)と表現していた。
 師弟といっても、弟子の一念で決まる。
 何より鏡花は、師・紅葉の厳愛の意味が、よくわかっていた。
 「(紅葉先生は)一旦その弟子達の世話を引き受けるとなったら、もう中途半端な事なんかして置かず徹底的にその者の一人前になるようにと仕込むのです」
 「厳格ではあったが、先生はよく可愛がって下すった」「何から何まで教えられた」(同)と。
 私には、戸田先生の薫陶と二重写しで、胸に迫る。
 朝から夜中まで、私の青春は「戸田先生をお護りする」──これが、すべてであった。
 先生の訓練は厳しかった。先生に呼ばれれば、いつでも、どこへでも飛んでいった。
 先生に託されたことは、どんな困難があろうと必ず実現した。
 先生も私を、亡くなられる間際まで、命がけで薫育してくださった。世界の知性と縦横無尽に対話できるだけの、最高の人間学を授けてくださった。
 これが創価の師弟なのである。
36  師からの手紙
 さて、父を亡くし、いったん金沢に帰郷した鏡花が大変な貧窮に苦しんでいた時のことである。
 生きる希望さえ失いかけていた弟子・鏡花を、師・紅葉が励ました手紙が残っている。
 「大詩人たるものはその脳 金剛石(=ダイヤモンド)の如く、火に焼けず、水に溺れず刃も入る能わず、槌も撃つべからざるなり、何ぞ況や一飯の飢をや」
 「汝の脳は金剛石なり。金剛石は天下の至宝なり。汝は天下の至宝をおさむるものなり。天下の至宝を蔵むるもの是豈天下の大富人ならずや」
 「倦ず撓まず勉強して早く一人前になるよう心懸くべし」(前掲『紅葉全集第12巻』)
 君の金剛石の才能が、いまだ光を放つ時が来ていないがゆえに、天が君に苦難を与えて、自分を磨かせようとしているのだ。何を嘆くことがあろうか。
 断じて負けるな!
 天下の至宝を持てる誇りも高く、鍛錬せよ!
 ──厳しくも温かい叱咤激励であった。
 弟子を思う師匠の厳愛ほど、ありがたいものはない。
 鏡花は、後に感謝を込めて語っている。
 「その時先生が送られた手紙の文句はなお記憶にある」
 「馬鹿め、しっかり修行しろ、というのであった。これもまた信じている先生の言葉であったから、心機立ちどころに一転することができた」(前渇『鏡花全集第28巻』)
37  どんどん書け
 師匠は、弟子に、“立派に成長して名を成し、家を興し、父祖を輝かせていくことが、最大の供養になる”とも励ました。
 「どんどん読みどんどん書くべし」(前掲『紅葉全集第12巻』)と。
 そして、師は、生活苦にあえぐ弟子の文学の錬磨に、いや増して心血を注いだ。
 弟子の作品にさまざまな直しを入れ、自ら全部、筆写するまでの労をとったのである。
 鏡花は、その直しの原稿を大切に保管し、後世に宝として、ありのままに遺している。
38  3年4カ月にわたって薫陶を受けた鏡花が、いよいよ師・紅葉の家を出る時のことである。紅葉は、弟子の前途を祝い、わざわざ会食を行ってくれた。
 鏡花は、深謝して綴っている。
 「紅葉先生、弟子の行を壮ならしむるため、西洋料理を馳走さる」「ホークと、ナイフの持ち方を教えられしも此の時なり」(笠原伸夫著『評伝 泉鏡花』白地社)
 師は、社会への雄飛を開始した弟子を思い、西洋料理の食べ方まで教えたのである。
 私も、学園1期生の代表を、卒業の折、帝国ホテルに招待して、マナーを教えながら、食事したことが懐かしい。今では世界の大舞台で、立派に活躍してくれている。
39  その後、鏡花は、師の期待に存分に応えていった。
 『夜行巡査』『外科室』などの作品を次々と世に出す。苦境を脱し、気鋭の作家として、地歩を固めていった。
 成功を収めつつあった鏡花の家を、突然、紅葉が訪ねてきて、上機嫌で歓談することもあったという。
 また紅葉は、質問に答えて、当時の最も良い若手の作家の一人に、弟子の鏡花の名を挙げている。
 愛弟子が成長し、堂々と社会に雄飛していく姿──師匠にとって、これ以上の喜びはないのである。
40  永遠の師弟城を
 師・紅葉は、病床にあってもなお、弟子・鏡花の原稿を添削し続けてくれた。
 この師の添削を受けた、最後の作品が『薬草取』である。
 主人公の若き医学生が、医者では治しがたい重病に伏せた恩人を救うため、医王山と呼ばれる場所へ、命がけで「薬草」を取りに行く物語である。
 この作品には、法華経の薬草喩品や薬王菩薩本事品が記されている。主人公も、この法華経を抱き、読誦している。
 「思うお方の御病気はきっとそれで治ります」(川村二郎編『鏡花短篇集』岩波文庫)
 ついに薬草を手に入れた、この最終部の言葉は、師を思う弟子・鏡花の願いと、そのまま重なる。
 鏡花は、後々まで、自らの書斎に、師の写真と全集とを飾った。師が生命を注いだ文章に接することが、師に接することになるからである。
 そして終生、深い真心を込めて、敬慕の念を捧げ続けたことは、知る人ぞ知る逸話である。
 その師弟の情は、人々の心を打たずにはおかなかった。
 弟子・鏡花は、師の遺徳を傷つける人間は断じて許さなかった。師を冒涜する言動に対しては、まさしく飛びかかっていって抗議をしたと言われる。
 鏡花は、師について書き記している。
 「(先生の)目は徹夜不眠の血に鋭く輝いて、そうして口許には優しく莞爾と微笑まれた。……私は襟を正して言う。今も(先生が)まのあたりにいます気がする」
 「片時へんじと雖も忘れざりしは、先生にておわします」(ともに前掲『鏡花全集第28巻』)
 師弟の道に徹し抜いた人生は、それ自体が荘厳な文学であり、不滅の芸術となる。
 私自身、一点の悔いもなく、師匠にお仕えし、お護りし抜いた。
 それは、幾多の歴史上の師弟にも負けないという自負がある。
 だからこそ、戸田先生の構想をすべて実現して、今日の大創価学会ができあがったのである。
 連載を再開した小説『新・人間革命』も、師弟の叙事詩にほかならない。
 そしてまた、正義の「言論革命」を成し遂げゆく聖教城も、「永遠の師弟城」であると宣言しておきたい。
41  「歴史は前にしか進まない!」
 月刊誌「第三文明」では、明年の新年号より、現在のナポレオン家の当主である、プランス・シャルル・ナポレオン公と、私の本格的な“ナポレオン対談”が始まる。〈対談のタイトルは、「21世紀のナポレオン──歴史創造のエスプリ(精神)を語る」〉
 大いなる人間、大いなる歴史を仰ぎ、学んでいくことは、大いなる自分自身を築くことである。
 その意味でも、“人類史の巨人”ナポレオンをめぐって、とくに「文化人」「建設者」としての側面に光を当てて、大いに語り合っていく予定である。
 ナポレオンの魅力の一つに、新しき歴史を創造せんとして、前進また前進を貫いた、不撓不屈の生命力、比類なき行動力が挙げられる。
 思えば、戸田先生が逝去された直後、私は意気消沈する同志を励まそうと、「若き革命家・ナポレオン」と題する一文を、聖教新聞に寄せた。
 その中で、私は綴った。
 「『前進!』──これが、全ヨーロッパを震動せしめた、若き、悍馬にまたがった、ナポレオンの一生を貫く姿であった」
 この点、ナポレオン公も、こう呼応してくださった。
 「『前進!』──これは、わがナポレオン家の歴史と精神を表す言葉でもあります。
 人類は、弛みなく前進を続けていかなければなりません。歴史は前に向かってしか進まないのです」
 “歴史は前に向かってしか進まない”──善の勝利への「前進」こそ、我らの使命である。
 ナポレオンは叫んだ。
 「人間はその行動に基づいてのみこれを判断しなければならない」(オクターヴ・オブリ編、大塚幸男訳『ナポレオン言行録』岩波文庫)
 価値創造の「行動」こそ、人生の誉れである。
 〈ナポレオン公は、こうも語っている。
 「私は池田会長に、ナポレオンに通ずる『卓越した行動力』『偉大な人間力』を見出すのです。
 池田会長は『前進の人』であり、『精神の人』であり、『平和の人』です」
 「私は、池田会長の全身に漲っている『生命の力』『知性の力』『精神の力』に圧倒されました。池田会長に『21世紀のナポレオン』を見る思いがいたしました」〉
42  「不屈の闘志」こそ英雄の魂!
 ナポレオンの人生は、決して栄光や勝利ばかりではなかった。失敗もあった。挫折もあった。
 皇帝の座を追いやられて、2度も島に流罪されるという悲劇も味わった。
 しかし、ナポレオンは、いかなる境遇にも断じて負けなかった。
 エルバ島に流された時、彼は、断固たる志をもって立ち上がり、もう一回、復活した。
 この不屈の闘志に、英雄の英雄たる魂の発光があると、私は思ってきた。
 最大の苦難や逆境の時にこそ、その人物の真価がわかる。
 ナポレオンは、最後に流刑された絶海の孤島セント・ヘレナにおいても、こう叫んでいる。
 「不幸を乗り越えるのが高貴で勇気あることなのだ! この世では、誰もが、その運命を全うする義務があるのだ!」(ラス・カーズ編、小宮正弘訳『セント・ヘレナ日記抄』潮出版社)
 わが人生を開いていくのは、この雄々しき気概である。決然たる勇気である。
 重ねて、ナポレオンの獅子吼を贈りたい。
 「仕事こそ私の本領とするところだ。私は仕事をするように生まれついているのだ。
 私は自分の足の限界は知っていた。眼の限界も知っていた。しかし仕事となるとその限界はまるで知らなかった」
 「数よりも精神力が勝利を決定する」(ともにアンドレ・マルロー編、小宮正弘訳『ナポレオン自伝』朝日新聞社)
43  結びに、私と同じ心で戦い進む、わが愛弟子たちに一句を贈りたい。
  創立日
    君たちありて
      大前進
 長時間ありがとう! すべてに立派な総仕上げをしていこう!

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