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全国合同協議会  

2006.11.22 スピーチ(聖教新聞2006年下)

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19  「傲慢は罪悪」
 ここで、日興上人が認められた御手紙の一節を拝したい。
 日興上人は「美作房御返事」で、五老僧について、このように述べておられる。
 「『師を捨ててはいけない』という法門を立てながら、たちまちに本師(日蓮大聖人)を捨て奉ることは、およそ世間の人々の非難に対しても、言い逃れのしようがないと思われる」 (編年体御書1729㌻、通解)
 大聖人が御入滅された後、高弟だった五老僧は大聖人の御遺言に背き、師の墓所への定期的な参詣と守護を行わなかった。
 「師を捨ててはいけない」という重大な戒めを知りながら、師匠である大聖人がいなくなると、手のひらを返したように師を捨ててしまう。その傲慢で、浅ましい姿を厳しく破折しておられるのである。
 近代日本の思想家・内村鑑三は述べている。
 「傲慢は罪悪のかしらであって其極である」(『内村鑑三著作集第6巻』岩波書店)
 傲慢から転落が始まる。かつて大恩ある学会に反逆した人間の多くも、「自分が一番偉い」と傲り高ぶっていた。
 そうした人間が、最後は哀れな末路をたどっていることは、皆さんがご存じの通りだ。
 イギリスの哲学者ジョノ・ロックは、こう述べている。――嘘つきは非常に悪い性質であり、そのために人は恥ずべき卑しさの最低段階におとしめられる。また人類の最も軽蔑すべき部類に入れられ、嫌悪される悪党の仲間に入れられるのである、と(服部知文訳『教育に関する考察』岩波文庫から)。
 その通りだ。嘘をつく人間を絶対に信用してはならない。
 同じくイギリスの哲学者のラッセルは記している。
 「人は重要なポストにつくと忠告の言葉に耳を傾けなくなるので、自分の心掛けを改める機会がなくなる」(中野好之・太田喜一郎訳『人生についての断章』みすず書房)
 重要な指摘である。戸田先生、そして牧口先生も、このことを訴えておられた。
 また、古代ローマの哲学者セネカは綴った。
 「人間を評価するのに、ただ着物か地位だけからするならば、それは大馬鹿者です」(茂手木元蔵訳『道徳書簡集』東海大学出版会)
 大事なのは人間の“中身”だ。信心である。社会的な立場やお金の有無で、人の偉さは決まらない。
20  わが心を磨け
 イタリアの桂冠詩人であるペトラルカ。彼は、創立900年を超える世界最古の総合大学であるボローニャ大学に学んだ。
 私は、このボローニャ大学からも名誉博士号を拝受している。その際、同大学の大講堂で記念講演を行ったことが懐かしい。〈1994年6月、「レオナルドの眼と人類の議会――国連の未来についての考察」と題して講演〉
 ペトラルカは述べている。
 「容貌の美しさも何になろう。心がみにくく汚れているなら」(近藤恒一編訳『ルネサンス書簡集』岩波文庫)
 どんなに表面が立派でも、内面が汚れていては台無しである。大切なのは、わが心を磨いていくことだ。内面から美しく輝いていくことだ。
 そのための最高の方法が信心である。広布に生き抜く人が、一番きれいに心を輝かせていけるのである。
 幕末に、松下村塾で多くの人材を育てた吉田松陰は述べている。
 「志ある人物は必ず志を同じゅうする友があり、師を同じゅうする朋がある」(近藤啓吾訳『講孟剳記(上)』講談社学術文庫)
 深い言葉である。
 同じ一生ならば、大きな志に生ききることだ。広宣流布のため、世界の平和のため、正義のために生き抜くことだ。
 「声仏事を為す」(御書708㌻)である。その志を、堂々と語りゆくのだ。
 「ああ、あの人はすごいな」「さすがだな」と言われるような人生を築いていくことだ。
 そのためにも、善き友と交わっていくことが大切なのである。それを仏法は教えている。
 真実の同志、偉大なる人生、その集まりが、創価学会なのである。
 それでは、以上でスピーチを終わりたい。長時間、ご苦労さま! どうか、お元気で! 風邪などひかれませんように。お父さん、お母さんを大切に。
 私も、皆さんのために題目を送っています。後世のために、次々と手を打っています。各方面にお帰りになりましたら、同志の皆さまに、くれぐれもよろしくお伝えください。
 どうか、リーダーの皆さんは、友の心がパッと広がるように、明るく、伸び伸びと、勝利の指揮をお願いします。
 親しみにあふれ、家族のように、大きな心で抱擁してあげていただきたい。
 すべての活動は、自分自身のため、学会の発展のため、広布の地盤を広げるためにある。胸を張って前進しよう! 一緒に頑張ろう! また、お会いしましょう!

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