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日蓮大聖人・池田大作

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創価大学第4回入学式 創造的生命の開花を

1974.4.18 「池田大作講演集」第7巻

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5  力と知恵の原理
 ところで最近、世界的に有名な社会学者の著した書に「力と知恵」という本があります。諸君のなかにもすでに読んで知っている方もあるかもしれませんが、その学者とはジョルジュ・フリードマンというフランス労働社会学の長老であります。
 この「力と知恵」の意味するものは“力”とは人間が技術の開発、発展によって得てきた環境支配の力であります。“知恵”とは、この“力”を使いこなし、人間の幸福のために価値創造していく英知をさしております。
 いま、私はフリードマンの著書の内容を、諸君に説明するつもりはありません。ただ、この“力”と“知恵”という立て分け方を用いて、訴えておきたいことがある。
 それは、明治から戦前までの日本の教育、なかんずく大学教育の目標を振り返ってみるとき、あまりにも“力”に偏った指向性があったのではないかということであります。知識を吸収し、技術を身につける、そして“力”の面で一日も早く世界的レベルに追いつかなければならない。これが、日本の教育が追求してきた最大の課題であったと思うのであります。
 もちろん、その背景には、長い鎖国によって、科学技術の分野で欧米諸国から立ち後れていたこと、もし一日も早く“力”をつけなければ、欧米諸国によって植民地化され、蹂躪される恐れがあったことは否定できません。そして、このいわゆる富国強兵政策によって、事実、他のアジア諸国がつぎつぎとその自由と独立を奪われていったなかにあって、日本は独立を維持することができたのであります。しかしながら、こうした“力”を崇拝し、富国強兵を追求し続けた結果が、日本を未曾有の敗戦という事態に陥れたことも、歴史の尊い教訓の一つとして、特に諸君たちは胸に刻んでいただきたい。
 また“力”の追求のための道具とされた教育が、本来、教育の生命である個々の人間の尊重、人間の尊厳の樹立という一点を失って、国家や企業にとって価値のある人間、すなわち国家、企業という組織のなかの歯車のような部品に甘んずる人間をつくりだしてきた。教育がその手段となってきたということも、忘れてはならない重大な問題であります。
 “力”の追求も大事だが、それは同時に“力”を使いこなせるだけの“知恵”の開発をともなわなければならない。“知恵”とは、人間自体に根ざしたものであり、ソクラテスがいみじくも破したごとく「汝自身を知る」ことから発するのであります。ここにこそ、人間を機械の部品に堕落させない、人間を他のいかなる物とも交換しえないものとする、尊厳性樹立の起点があるわけであります。
 真実の学問とは、せんずるところ、この自己への“知”にある。創価大学がめざす学問、教育の理想も、ここにあるといってよい。“力”への学問においては、優れた大学や研究機関が世界に数えきれないほどあるでありましょう。だが、それらは人間に何をもたらしたか。それは、惨憺たる現代文明の虚像ではなかったかとも、みえるのであります。
 諸君の使命は、あらゆる“力”を人間の幸福と平和のために使いこなす“知恵”を、身につけることにあるといいたいのであります。それは汝自身を知り、それに結びついたかたちで、学問を究めることであります。それが自分に、すなわち人間にとってどういう関係にあるか――すべてをここに引き戻して知識、技術、芸術の再編成をするとともに、新たな人類の蘇生をもたらしていただきたいのであります。
 その着実な作業の積み重ねのかなたに、人類文化の偉大なるルネサンスがあることを確信し、諸君の成長を、心より祈ってやまないものであります。
 フランスの著名な文化人であり、美術史家であるルネ・ユイグ氏も、過日の東大での講演での講演で、次のように述べている。その講演は「自然と芸術における形態と力」というテーマで、その一部分を要約しますと、「現在の危機は文明の危機であり、物質化への危機である。人間の文化の欠点は、それがそれぞれの分野に分けられてしまい、全体というものを見失っている。私は人類の文化は唯一不可分のものと考える。また、知識人は自己の力と知識のすべてを、あげて文明のために尽くさなければいけないと考える。今日の危機は社会的危機、政治的危機よりも、より根本的な文明の危機というべきものである」という意味の警告の論調を、展開しておられました。
6  「創造的生命」を発現
 ここで二十一世紀に羽ばたくであろう諸君に、私は友愛の情をこめつつ、若干、付言しておきたい。
 私は同じく昨年、本大学において″創造的人間をめざすように”ということを、要望してまいりました。そのことに関連して「創造的生命」という点に、言及したいのであります。なにも私は、難しい哲学の解説をするつもりはありません。そしてまた、一般的定義づけをしようという考えも、毛頭ありません。ただ私は、諸君に、この長い貴い人生にあって、敗北の影のある、暗い人生の旅行者になってもらいたくない。私自身の体験のうえから″諸君の前途に栄光あれ"と願いつつ、一つの示唆として、お話しするわけであります。
 私の胸にあふれてやまむ″創造”という言葉の実感とは、自己の全存在をかけて、悔いなき仕事を続けたときの自己拡大の生命の勝ちどきであり、汗と涙の結晶作業以外のなにものでもありません。“創造的生命”とは、そうした人生行動のたゆみなき錬磨のなかに浮かび上がる、生命のダイナミズムであろうかと、思うのであります。
 そこには嵐もあろう、雨も強かろう、一時的な敗北の姿もあるかもしれない。しかし“創造的生命”は、それで敗退しさることは決してない。やがて己の胸中にかかるであろう、さわやかな虹を知っているからであります。甘えや安逸には創造はありえない。愚痴や逃避は堕弱な一念の反映であり、生命本然の創造の方向を腐食させてしまうだけであります。創造の戦いを断念した生命の落ち行く先は、万物の“生”を破壊しつくす奈落の底にほかなりません。
 諸君は、断じて新たなる“生”を建設する行為を、一瞬だにもとどめてはならない。創造はきしむような重い生命のを開く、もっとも峻烈なる戦いそのものであり、もっとも至難な作業であるかもしれない。極言すれば、宇宙の神秘な扉を開くよりも、汝自身の生命の門戸を開くことのほうが、より困難な作業、活動であります。
 しかし、そこに人間としての証がある。いな、生あるものとしての真実の生きがいがあり、生き方がある。“生”を創造する歓喜を知らぬ人生ほど、寂しくはかないものはない。生物学的に直立し、理性と知性を発現しえたことのみが、人間であることの証明にはならない。創造的生命こそ、人間の人間たるゆえんであると思いますけれども、諸君いかがでしょうか。(大拍手)
 新たなる“生”を創り出す激闘のなかにこそ、はじめて理性を導く輝ける英知も、宇宙真理まで貫き通す直観智の光も、襲いくる邪悪に挑戦する強靱な正義と意思力も、悩める者の痛みを引き受ける限りない心情も、そして宇宙本源の生命から湧き出す慈愛のエネルギーと融和して、人々の生命を歓喜のリズムに染めなしつつ、脈打ってやまないものがあるからであります。
 逆境への挑戦をとおして開かれた、ありとあらゆる生命の宝をみがきぬくにつれて、人間ははじめて、真の人間至高の道を歩み行くことができる、と私は確信するのであります。ゆえに、現代から未来にかけて“創造的生命”の持ち主こそが、歴史の流れの先端に立つことは疑いない、と私は思う。この“創造的生命”の開花を、私はヒューマン・レボリューション、すなわち「人間革命」と呼びたい。これこそ諸君の今日の、そして生涯かけての課題なのであります。
 最後に私は、十九世紀後半のフランスの作家であり詩人であるペギーが、「教育の危機は、教育の危機ではなく、生命の危機なのだ」と叫んだ言葉を思い起こすのであります。現代の危機は、まさに学問、教育の内部にまで入り込んでいるところに、その深さがあるといってよい。ゆえにまた、このことは、教育にこそ未来への突破口があることを物語るものであります。創価大学に私がかけているところのものも、そのためであります。
 それでは諸君、どうか楽しく有意義な四年間の出発でありますよう――。そして教授の諸先生方、また職員の方々、先輩の方々に、本年入学した“未来の宝”をよろしく、と心よりお願い申し上げて、私の話を終わらせていただきます。(大拍手)

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