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日蓮大聖人・池田大作

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創価大学第4回入学式 創造的生命の開花を

1974.4.18 「池田大作講演集」第7巻

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3  学生こそ大学の主役
 昨年の入学式のおり、少しばかり大学の発祥について、歴史をさかのぼって考察を加えておきました。そのとき、大学というものが制度や建物からではなく、新しい知識と学問を求めようとする若者の情熱と意欲から起こったものであることを、述べておきました。
 すなわち、真理をこよなく自らのものにしたいという若者の熱望がまずあって、それが学問的職業人、つまり教師を生み出し、そしてこの教師と学生との人間的共同体が、今日の大学の淵源になっていった。つまり、もともと大学というものは、学問を求め真理を愛する学生たちの熱誠から、始まったということなのであります。
 これこそ、大学の始原であると同時に、帰趨である、と私は思うのであります。学生不在の大学となれば、もはや目的の手段化であり、大学の生命はない、といいたい。残念なことに、今日の日本の大学には、方向喪失と停滞がつきまとっている。ゆえに、いまこそ、大学の原点に立ち返る必要があると考える。
 そこで、本日めでたく入学された諸君に、心の底から要望したいことは、諸君こそ私と同じく、若き大学の創立者であり、創造者であるという一点を、決して忘れないでほしい、ということなのであります。在学中のみでなく、生涯、創価大学を、皆の手で建設し、守っていただきたいというのが、私のお願いなのであります。(拍手)
 教授と学生の断絶の問題について、サンマルコス大学の副総長と話し合ったさい、副総長は、次の二点を述べておりました。
 その一つは、対話が絶えず行われなければならないこと、第二点として、学生が責任をもって大学諸行事に参画できうる体制を講ずべきである、というのであります。私はこの対談で、苦難のなかにも新しい大学の方向を真剣になって模索しているところは、学生をいかにして大学の主役にするかという点に、新たなる、また時代の流れにあった問題の解決を見いだそうとしている、と感じとったのであります。
 そこで、諸君たちは大学から与えられるのを待っている、という姿勢ではなく、能動的に、かつ情熱的に“これこそ大学の新しい希望の灯である”といえる、誇りに満ちた勇気ある建設作業に、取り組んでもらいたいと思うのであります。
 特に対話という問題でありますが、価値ある対話というものは、それぞれの責任感と、信頼感から生まれるものであって、無責任な討論ではないのであります。すなわち、自分たちの大学であるとの強い自覚にもとづく責任と、創価大学を人類文化の跳躍台としていくのである、という目的観に結ばれた相互の信頼関係が、必ずや実りある対話をもたらすことでありましょう。そして、本大学に見事な人間的共同体を創出していっていただきたいことを、私は強くお願いするものであります。
4  私立大学の使命
 これに関連して、私立大学の特質についてふれておきたい。いうまでもなく、私立大学の存在意義というものは、国家権力からの制約をうけることなく、自主的に建学の信念を貫き通すところにあります。こうした大学の教育にあっては、広く人類の未来に思いをはせ、世界的視野に立っての有為な人材を、自由に伸びのびと育成することができるわけであります。
 狭い国家意識や民族意識のワクにとらわれることなく、世界の檜舞台に雄飛すべきスケールの大きな視野の広い青年たちを、荒れ狂う社会の変革のために送り出すところに、私立大学の特色の一つを見いだしたいのであります。
 次に、あらゆる大学の使命の一つである学問の研究の場にあっても、私立大学には学閥的閉鎖性のかげりがない、自由な、それでいて活力に満ちた気風がみなぎっていなければならないと思う。思想の自由、研究の自由、発表の自由、といった学問研究における絶対条件を満たしうるのも、私立大学に課せられた特色である、と私は考える。
 このような自らの信条にもとづいて築き上げた学問の場こそ、独創的な研究成果を生み、個性豊かな研究者を育てていく母体となり、土壌となるにちがいない。また、泡沫のような時流にとらわれることなく、長大な展望に立っての息の長い研究に取り組めるのも、私立大学に課せられた役割であります。
 いま、私が私立大学のもちうる特色としてあげた教育と研究のあり方こそが、人類歴史の流転のなかで産声をあげた、大学という制度のもともとの目標であり、使命であった。これに対して、国立、公立の大学にも種々の長所があり、特色があることも認めなければなりませんが、国立、公立の大学は、なんといっても国家からの要請、制約を無視できないという条件を背負っております。
 私立大学には、一国家、一民族の要請を受け入れつつも、更に遠大な視野に立っての教育と研究を、自由に行いうるという最大の長所が備わっている。また、国家権力のあくどい介入に対抗して、真実の学問と文化の精華を守りぬく砦は、私立大学にこそ見いだしうる、と考えたいのであります。
 現在、わが国の習性は、明治以来の流れとして、国立、公立の大学に、青年たちの教育と文化興隆の源泉を求めがちであります。いわば、国立、公立の大学を主流とみなしてきたのが、教育者をはじめとする多くの人々の固定観念でありました。
 しかし、私は日本と世界の将来を思うにつけても、大学精神を人類社会のなかに生きいきと通わせるには、私立大学こそが主流になるべきではないか、と主張しておきたいのであります。諸君、どうでありましようか。(大拍手)
 私立大学に学び、その自由闊達な精神を骨髓に刻みこみ、独創的な知惠をつちかった俊逸たちが、海を越え、大地を踏みしめて、この地球上のあらゆる民衆の真っただ中に入りゆくとき、はじめて人間と人間、民族と民族、庶民と庶民の生命交流が可能となり、異なった文化の見事な融合と昇華が成し遂げられるものと、確信するからであります。
 そこから、民衆と民衆をつなぐ強固な交流のかけ橋が築かれ、陸続と続く友たちとともに、新たなる地球文化、人類文化の胎動を告げる暁鐘が、やがて人々の心を揺り動かすにいたるでありましょう。ともかく、諸君は民族間に架けられるべき平和と文化の橋を作り上げる使節であり、建設者であり、担い手であります。
 同時に私は、未来の世界に響き渡るであろう地球新文化誕生を告げる暁鐘を、諸君の手で、打ち鳴らしていってほしいのであります。そして、諸君の連打する暁鐘の音には、幾多の無名の人間庶民の切実な祈りにもにた願望がこめられていることも、決して忘れないでいただきたい。
5  力と知恵の原理
 ところで最近、世界的に有名な社会学者の著した書に「力と知恵」という本があります。諸君のなかにもすでに読んで知っている方もあるかもしれませんが、その学者とはジョルジュ・フリードマンというフランス労働社会学の長老であります。
 この「力と知恵」の意味するものは“力”とは人間が技術の開発、発展によって得てきた環境支配の力であります。“知恵”とは、この“力”を使いこなし、人間の幸福のために価値創造していく英知をさしております。
 いま、私はフリードマンの著書の内容を、諸君に説明するつもりはありません。ただ、この“力”と“知恵”という立て分け方を用いて、訴えておきたいことがある。
 それは、明治から戦前までの日本の教育、なかんずく大学教育の目標を振り返ってみるとき、あまりにも“力”に偏った指向性があったのではないかということであります。知識を吸収し、技術を身につける、そして“力”の面で一日も早く世界的レベルに追いつかなければならない。これが、日本の教育が追求してきた最大の課題であったと思うのであります。
 もちろん、その背景には、長い鎖国によって、科学技術の分野で欧米諸国から立ち後れていたこと、もし一日も早く“力”をつけなければ、欧米諸国によって植民地化され、蹂躪される恐れがあったことは否定できません。そして、このいわゆる富国強兵政策によって、事実、他のアジア諸国がつぎつぎとその自由と独立を奪われていったなかにあって、日本は独立を維持することができたのであります。しかしながら、こうした“力”を崇拝し、富国強兵を追求し続けた結果が、日本を未曾有の敗戦という事態に陥れたことも、歴史の尊い教訓の一つとして、特に諸君たちは胸に刻んでいただきたい。
 また“力”の追求のための道具とされた教育が、本来、教育の生命である個々の人間の尊重、人間の尊厳の樹立という一点を失って、国家や企業にとって価値のある人間、すなわち国家、企業という組織のなかの歯車のような部品に甘んずる人間をつくりだしてきた。教育がその手段となってきたということも、忘れてはならない重大な問題であります。
 “力”の追求も大事だが、それは同時に“力”を使いこなせるだけの“知恵”の開発をともなわなければならない。“知恵”とは、人間自体に根ざしたものであり、ソクラテスがいみじくも破したごとく「汝自身を知る」ことから発するのであります。ここにこそ、人間を機械の部品に堕落させない、人間を他のいかなる物とも交換しえないものとする、尊厳性樹立の起点があるわけであります。
 真実の学問とは、せんずるところ、この自己への“知”にある。創価大学がめざす学問、教育の理想も、ここにあるといってよい。“力”への学問においては、優れた大学や研究機関が世界に数えきれないほどあるでありましょう。だが、それらは人間に何をもたらしたか。それは、惨憺たる現代文明の虚像ではなかったかとも、みえるのであります。
 諸君の使命は、あらゆる“力”を人間の幸福と平和のために使いこなす“知恵”を、身につけることにあるといいたいのであります。それは汝自身を知り、それに結びついたかたちで、学問を究めることであります。それが自分に、すなわち人間にとってどういう関係にあるか――すべてをここに引き戻して知識、技術、芸術の再編成をするとともに、新たな人類の蘇生をもたらしていただきたいのであります。
 その着実な作業の積み重ねのかなたに、人類文化の偉大なるルネサンスがあることを確信し、諸君の成長を、心より祈ってやまないものであります。
 フランスの著名な文化人であり、美術史家であるルネ・ユイグ氏も、過日の東大での講演での講演で、次のように述べている。その講演は「自然と芸術における形態と力」というテーマで、その一部分を要約しますと、「現在の危機は文明の危機であり、物質化への危機である。人間の文化の欠点は、それがそれぞれの分野に分けられてしまい、全体というものを見失っている。私は人類の文化は唯一不可分のものと考える。また、知識人は自己の力と知識のすべてを、あげて文明のために尽くさなければいけないと考える。今日の危機は社会的危機、政治的危機よりも、より根本的な文明の危機というべきものである」という意味の警告の論調を、展開しておられました。
6  「創造的生命」を発現
 ここで二十一世紀に羽ばたくであろう諸君に、私は友愛の情をこめつつ、若干、付言しておきたい。
 私は同じく昨年、本大学において″創造的人間をめざすように”ということを、要望してまいりました。そのことに関連して「創造的生命」という点に、言及したいのであります。なにも私は、難しい哲学の解説をするつもりはありません。そしてまた、一般的定義づけをしようという考えも、毛頭ありません。ただ私は、諸君に、この長い貴い人生にあって、敗北の影のある、暗い人生の旅行者になってもらいたくない。私自身の体験のうえから″諸君の前途に栄光あれ"と願いつつ、一つの示唆として、お話しするわけであります。
 私の胸にあふれてやまむ″創造”という言葉の実感とは、自己の全存在をかけて、悔いなき仕事を続けたときの自己拡大の生命の勝ちどきであり、汗と涙の結晶作業以外のなにものでもありません。“創造的生命”とは、そうした人生行動のたゆみなき錬磨のなかに浮かび上がる、生命のダイナミズムであろうかと、思うのであります。
 そこには嵐もあろう、雨も強かろう、一時的な敗北の姿もあるかもしれない。しかし“創造的生命”は、それで敗退しさることは決してない。やがて己の胸中にかかるであろう、さわやかな虹を知っているからであります。甘えや安逸には創造はありえない。愚痴や逃避は堕弱な一念の反映であり、生命本然の創造の方向を腐食させてしまうだけであります。創造の戦いを断念した生命の落ち行く先は、万物の“生”を破壊しつくす奈落の底にほかなりません。
 諸君は、断じて新たなる“生”を建設する行為を、一瞬だにもとどめてはならない。創造はきしむような重い生命のを開く、もっとも峻烈なる戦いそのものであり、もっとも至難な作業であるかもしれない。極言すれば、宇宙の神秘な扉を開くよりも、汝自身の生命の門戸を開くことのほうが、より困難な作業、活動であります。
 しかし、そこに人間としての証がある。いな、生あるものとしての真実の生きがいがあり、生き方がある。“生”を創造する歓喜を知らぬ人生ほど、寂しくはかないものはない。生物学的に直立し、理性と知性を発現しえたことのみが、人間であることの証明にはならない。創造的生命こそ、人間の人間たるゆえんであると思いますけれども、諸君いかがでしょうか。(大拍手)
 新たなる“生”を創り出す激闘のなかにこそ、はじめて理性を導く輝ける英知も、宇宙真理まで貫き通す直観智の光も、襲いくる邪悪に挑戦する強靱な正義と意思力も、悩める者の痛みを引き受ける限りない心情も、そして宇宙本源の生命から湧き出す慈愛のエネルギーと融和して、人々の生命を歓喜のリズムに染めなしつつ、脈打ってやまないものがあるからであります。
 逆境への挑戦をとおして開かれた、ありとあらゆる生命の宝をみがきぬくにつれて、人間ははじめて、真の人間至高の道を歩み行くことができる、と私は確信するのであります。ゆえに、現代から未来にかけて“創造的生命”の持ち主こそが、歴史の流れの先端に立つことは疑いない、と私は思う。この“創造的生命”の開花を、私はヒューマン・レボリューション、すなわち「人間革命」と呼びたい。これこそ諸君の今日の、そして生涯かけての課題なのであります。
 最後に私は、十九世紀後半のフランスの作家であり詩人であるペギーが、「教育の危機は、教育の危機ではなく、生命の危機なのだ」と叫んだ言葉を思い起こすのであります。現代の危機は、まさに学問、教育の内部にまで入り込んでいるところに、その深さがあるといってよい。ゆえにまた、このことは、教育にこそ未来への突破口があることを物語るものであります。創価大学に私がかけているところのものも、そのためであります。
 それでは諸君、どうか楽しく有意義な四年間の出発でありますよう――。そして教授の諸先生方、また職員の方々、先輩の方々に、本年入学した“未来の宝”をよろしく、と心よりお願い申し上げて、私の話を終わらせていただきます。(大拍手)

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