Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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学生部結成16周年に寄せ 民衆凱歌へ不惜の転教

1973.6.30 「池田大作講演集」第5巻

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7  巷間、世の人々はいう。価値観の崩壊をまえに、生きる意志に迷う学生は「もはや無頼の徒である」と。この笑と侮の声を浴びて、自らも無頼の徒と冷笑する学生たち。
 彼らをして、確信する――なにものもなく、生きる証を失わせたものは、いったいだれなのか。社会はあくまでも非情であろう。人類の醜悪な歩みを、いまに凝縮して噴出させている現代。汚れない。青年の心情を、暗くしていることはいなめない。世直しの運動は、強力に持続しなければならない。
 しかし……。僕は、あえていいたいのだ。「決して無頼の徒であってはならない」と。自らをそう決めるのは、だれでもない。自分自身である。君たちは、その桎梏を取り払おうと立ち上がった使命の人である。
  君たちよ わが道を惑わずに
  欣然として進んでくれたまえ
  僕は清純な鼓動を信ずる
 君たちは、限りない可能性を背光に、模索の果てに、久遠の生命を探りあてた、開道の人なのだ。いかなる時代、いかなる体制になろうと、一個の人間の生命に光をあてた仏法――ここに、いっさいは帰し、いっさいは始まる。もはや逡巡も惑いもない。
8  「詮ずるところは天もすて給え諸難にもあえ身命を期とせん、身子が六十劫の菩薩の行を退せし乞眼の婆羅門の責を堪えざるゆへ、久遠大通の者の三五の塵をふる悪知識に値うゆへなり、善に付け悪につけ法華経をすつるは地獄の業なるべし、大願を立てん日本国の位をゆづらむ、法華経をすてて観経等について後生をせよ、父母の頸を刎ん念仏申さずば、なんどの種種の大難・出来すとも智者に我義やぶられずば用いじとなり、其の外の大難・風の前の塵なるべし
 転教の遠征に、我らがたずさえるものは、この死身弘法の誓いをおいてないだろう。大難と戦い、諸難を乗り越えて進む、我らの前途を照らすものは、殉教の誉れである。
 はるか広宣流布の第二章の遠路を歩むいま、君たちは、十六年の節を刻んだ。寿量十六は、迹門がら光輝満つ本門の展開を約束する。信仰の徒として、生命の世紀へ、限りなく、ひたすらに、ともに進もう。
 先駆者の歴史を拓く偉大な作業には、批判、中傷は、むしろ快い。それは、前進の帆にはらむ風であり、大樹となる肥沃な土壌を、提供してくれる。
 長期的展望に立つ明晰な諸君に、一時の嵐がなんであろう。井中より星を視るような狭量な生き方は、青春乱舞には、微塵もあってはならない。
 「君もひとたび決めた信仰の旗を生涯、振り続けたな!」――と、最後の最後の人間勝利の日を、ともどもに語り尽くそう。座して敗れる人となるより、撃って出て、誉れ高き人間行動のドラマを、見事に繰り広げよう。
  究極の英知をたもった色心の力を
  この世で徹底して試してくれたまえ
 僕は、この意味で、創価学会学生部史の編纂を提案する。必ず、この偉大な学徒の陳列より、世に逸材が出ることを信じている。新しい歴史は、再び綴られていくことであろう。まさに、本格派が躍り出る時である。
 ともかく学生部結成十六年、おめでとう。ほんとうにおめでとう。
 一九七三年六月二十九日午後四時四十五分 聖教本社にて

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