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日蓮大聖人・池田大作

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第1回創価大学夏季大学講座 文学と仏教

1973.8.25 「池田大作講演集」第5巻

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7  遁世者の文学
 数多くの戦記物、鏡類の歴史物、あるいは随筆等の秀作が生まれでた背景を見つめてみると、ここにもまた仏教の影が色濃くうかがえるのであります。彼らの隠遁生活は、江戸時代の楽隠居とは根本的に違っている。それは、まさしく仏者としての出家にも比すべきものであったのであります。事実、こうした文人たちの大半は髪を剃り、衣をまとったのであります。ただ、本来の出家と違って、目的は文芸著作に徹せんがためであったわけであります。しかし、その決意、姿勢というものは、厳しい出家の精神と同じであり、仏教の作法にかなっていたとみざるをえないのであります。
 平安時代にせよ、足利時代、戦国の時代にせよ、当時の知識人を束縛したものは、氏俗、家族という制度であり、自由な創作活動に打ち込めない状況にあった。まして、源平の動乱以降は、世にあって官につき、一戸の長として家を構えていては、いつ動乱に追い立てられるかわからないという背景があります。つまり、彼らにとっては、隠生活こそが、生涯の仕事のために見いだしえた唯一の活路であったとみるのであります。
 中世における「方丈記」の著者・鴨長明や「徒然草」の著者・吉田兼好らは、その代表的な人物であったわけであります。吉田兼好は「心にうつりゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつくれば……」と有名な出だしがありますが、心に映ったものを、良くとも悪くとも、感じたままに書いていこう、というふうに、いかにも空とぼけたような姿勢を示しておりますが、内容は決してそうではないのであります。天性の自由人の気概で筆を執り、英知の深み、内省の厳しさに徹していたことが、この文を深く読んでみると明瞭にわかるのであります。
 たとえば「徒然草」第九十二段“ただ今の一念”という段に「或人、弓射る事を習ふに、諸天をたばさみて的に向ふ。師の云はく、『初心の人、二つの矢を持つ事なかれ。後の矢を頼みて、始めの矢に党閑の心あり。毎度たゞ得矢なく、この一矢に定むべしと思へ』」と書かれてあります。
 ――ある人が弓を射る練習をしていた。二本の矢を持ちながら一本一本射ようとしていた。そのとき、師匠が「初心の人は二つの矢を持つ事はいけない。まだ矢があると思えば一本の矢がなおざりになる。後は一つも矢がないと決め、一本で射る練習をしなさい」と教えた。
 また「師の前にて一つをおろかにせんと思はんや。懈怠の心、みづから知らずといへども、師これを知る」とあります。懈怠の心を自らは知らなくとも、師匠は知っている。
 更に「このいましめ、万事にわたるべし。道を学する人、夕には朝あらん事を思ひ、朝には夕あらんことを思ひて、かさねてねんごろに修せんことを期す。況んや一刹のうちにおいて、懈怠の心ある事を知らんや。何ぞ、たゞ今の一念において、直ちにする事の甚だ難き」というのが「徒然草」の“ただ今の一念”という段の文であります。
 この文は、事実の見聞をそのまま随筆したと、私はみたいのです。観念的に書いたものではないでしょう。勝ってなフィクションとは考えられない。そして内容はそのまま仏者の思想そのものであると、私は感ずるのであります。教訓文学ではありますが、仏教と文学との関係の深さを、これほど鮮やかにみせているのは類がないほどであります。「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。淀みに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとゞまりたる例なし。世中にある人と栖と、またかくのごとし」から始まるあの「方丈記」の作者は、兼好法師よりも単純直截に、仏教的人生観に終始したとみたい。己の生きた世相を、仏者の目をもって評論し、最後に、自分の厳しい草庵生活をもって「楽しむに足れるもの」と断じて筆をおくのであります。これが六十歳の老境にある鴨長明の心境であったと思われます。
8  「平家物語」にみる“業”の思想
 終わりに「平家物語」について述べておきたい。
 中世文学で特筆すべきものは、当時の大衆文学とされた軍記物ととよばれるジャンルであります。そのなかでも代表的な軍記物は、鎌倉時代の「平家物語」と南北朝の「太平記」であるといわれておりますが、私は特に「平家物語」のほうに興味をおぼえるのであります。「新補・日本文学史」では「この物語を貫くものは、巻頭に道破された如き諸行無常の仏教観であって、平家一門の興亡を主題として、盛者必衰の世相を示すのが全体の精神である。(中略)中大小の人物、いずれも変転極まりなき運命の犠牲者ならざるはなく、全相寄って人生の一大哀詩を奏でて居るのがこの物語の生命であろう」とも述べている。確かにそのとおりであります。
 そして私は、それとともに、また違った感慨をもいだくのであります。それはさきに少しふれたところでありますが、西欧の精神においては、原罪意識が強烈に貫かれております。ところが、古代から上代までの日本人には罪の意識というものは、まったくありませんでした。そのころの日本人が「罪」という言葉を使った場合は、その意味内容は不潔、不浄、つまり“けがれ”のことであったといえるのであります。傷も怪我も“けがれ”が原因で起こると考えられていた。“けがれ”を払って清めてしまえば、万事終わりということで、この点では、底ぬけの楽天主義ともいえるのが、日本人の考え方であったといえるのかれしれない。お祓いの霊力を信じたり、水へ入って沐浴したり、あらゆる“けがれ”を、文字どおり水に流すのであった。
 よく“水に流す”といいますが、これも古代、上代からくる延長上の思想であろう。悪といい、罪といっても“けがれ”そのものでしかないとする日本人には、罪意識がなかったといってよいのであります。しかしその後、社会の複雑化の過程において、当然のことながら、それではすまされなくなってまいりました。
 そして儒学と仏教が入って、儒学は“罪”を教え、仏教は“業”を教えました。奈良朝時代の日本人は政府の制度としては“罪”の考え方を採用しましたが、思想としては、罪意識をとらずに“業”の思想をとったのであります。
 平安時代を通じて定着した“業”の思想は、上古の“けがれ”という楽天思想を一変させる力をもっていたのであります。「平家物語」はリアル(現実的)な平家一門の興亡史を通じて、鋭く、人間の織りなす“業”をみつめていると読みたいのであります。
 物語の材料は、現実に展開された事件であります。それを仏法の“業”の思想を眼をとおして、作者はすべての登場人物に、いたわりの心情を向けつつ、描き出しているのであります。
 賢者も愚者も、そして強者、弱者も、その別はあれども、善者、悪者の区別はなく、すべてみやびな“もののあはれ”の筆致で、描き出されつつ、最後「平家灌頂巻」にいたって“わび”“さび”幽玄の趣さえもにじみだしてくるのであります。
 平家最後の人・建礼門院も亡くなり、つき従っていた女房たちが寄るべもなき身のまま、おりおりの仏事を営んで暮らし「遂に彼人々は、竜女が正覚の跡をおひ、韋提希夫人の如に、みな往生の素懐をとげけるとぞ聞こえし沙門覚一」と結ばれております。すなわち、諸業無常の理の示すところ、最後の一人まで業のままに行き、業のままに無常に帰して、この物語は簡潔しているのであります。
 しかし、最後の一行に、ふくみがもたされているように思います。「竜女が正覚の跡をおひ」うんぬんがそれであります。これだけの長編物においてさえ、さきにも述べましたように“簡浄の美”の手法が用いられていると、私は深く思うからであります。
 諸業無常だけでは仏法になりません。作者も当時の知識人として「諸行無常是生滅法」の下の句である「生滅滅已寂滅為楽」は、当然知っていたと考えられる。この「寂滅為楽」の一句が「竜女が正覚の跡をおひ」うんぬんの一句に埋伏され、そこに“簡浄の精神”がこめられたと、私は考えたい。ともあれ、私はこの一点において、文学者・覚一法師の思想的流風余韻を感じてやまない一人であります。
 仏教と深くなじみながら成長してきた日本文学は、どこまでも大和心を発達させながら“簡浄の美”という、一つの極点に到達したことはまちがいない事実でありましょう。
 “簡浄の美”の“簡”とは、ふくみ多きものとしての“簡”であり、簡単という意味の“簡”ではない。“浄”とは、上古の浄めの思想から発して、仏教の「常楽我浄の“浄”に発達したものであり、されば“簡浄の美”を尊ぶ文学の伝統は、日本人の独自なる仏教精神に培われた“大和心”のあらわれであると、私は考えたいのであります。
 最後に、このように日本文学は、仏教を豊かな思想的土壌として展開されてきましたが、その仏教の思想は、大乗教のなかでも権・実のうち権教のほうに属する、いまだ正覚を得ない段階の思想でありました。今後の激動の社会において、大聖人の偉大な仏法を根底として新しい人間復興の波が起き、人間変革、人間革命がなされていくでありましょう。こうした潮流のなかで、偉大な仏法思想を源泉とした新しい世界文学というものが興ってくるのも、これまた必然でありましょう。
 きょうは一段階として私の話を終わります。また、次の機会に講演させていただければ幸甚です。(大拍手)

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