Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第27回関西幹部会 生命の世紀の先駆を

1970.9.1 「池田大作講演集」第3巻

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3  大福運の実証者に
 次に関西の皆さん方は、他のどの地方の人々より、妙法の功徳の光に輝く幸福の実証者であっていただきたい。
 かつて恩師戸田前会長が最初に関西を訪れ、その指導の第一歩をしるされたとき「この関西の地から貧乏人と病人を追放しよう」といわれた。当時の大阪は戦災の傷跡も深く、ひじょうに不幸な人々が多かった。いきおい、学会の座談会に出席する人も、宿命に泣き、人生の悲哀を一身に背負った感じの人が多く見られた。
 恩師は、その姿を見て、そうした人々を救うために戦った。その結果、いまから振り返ってみると、との当時から、真面目に信心してきた人々は見違えるほど人間革命し、幸福になっている。すなわち大御本尊には、凡夫でははかることのできない功徳がある。もっとも戦い、法戦に励んできた人に、もっとも偉大な妙法の力が顕現するのは、仏法の因果倶時の方程式であります。
 したがって、まだ宿命転換の途上にある人も、必ずこの十年間で、人間革命を立派に成し遂げていっていただきたい。そして、関西こそ仏法の最大の実証者の地であったということを、新しい伝統として築き上げてほしい。あわせて、この歴史を将来、永遠に刻み続けていっていただきたいことを、心からお願いするものであります。(大拍手)
 妙法尼御前御返事にいわく「此の経の題目は習い読む事なくして大なる善根にて候、悪人も女人も畜生も地獄の衆生も十界ともに即身成仏と説かれて候は、水の底なる石に火のあるが如く百千万年くらき所にも燈を入れぬればあかくなる、世間のあだなるものすら尚加様に不思議あり、何にいわんや仏法の妙なる御法の御力をや」と。
 大聖人の仏法の功徳が、いかに偉大であるかを示された御文である。妙法は深い哲理を含んでいる。しかし、それを習学することがなくとも、真に実践するだけで、わが身に大福運が積まれるとのご断言であります。
 妙法が、一部のインテリや特権階級のための宗教ではなく、また虚栄の観念論でもなく、あくまでも大衆のものであるということを教えられたこの御文を、色読していっていただきたいのであります。
 「悪人も女人も――」とは、もっとも不幸な人をあげておられる。もっとも苦しむ人々を最高に幸せにしていくのが仏法の慈悲である。虚栄も虚飾も必要なく、自体顕照で、ありのままの姿をもって功徳に輝いた境涯へと転ずることができる。水の底にあった石でも打てば火が出るごとく、暗闇のなかに灯を入れると明るくなるごとく、大御本尊の功徳は全世界、全宇宙に遍満するものである。暗き悠久の人類史に灯の一点を投じたのは創価学会の戦いであるということに誇りをもって進んでいっていただきたい。(大拍手)
4  苦悩する社会の解決へ深い思索と実践
 創価学会は、当然宗教団体でありますが、もう一歩深くいえば、単なる宗教儀式を行うための宗教団体であってはならない。あくまでも日蓮大聖人の仏法哲学をもって、人々の不幸を解決し、現代社会を救うための宗教団体である。すなわち、宗教の理念を社会に開くことにその実践の理想と使命がある。このゆえに、在家すなわち一般社会人による宗教団体というかたちをとっているのであります。
 したがって、創価学会員であるならば、現実社会の動き、問題に対してつねに鋭敏でなくてはならない。そしてその底流にある人々の苦悩、社会の矛盾を、仏法哲理によって、いかに解決していくかという思索と実践がなくてはならない。
 この問題意識に立った社会運動、文化運動の広範な展開こそ、新しい学会の担った重要な課題である。それはもとより、折伏、教学に代表される宗教運動を根底としたものでありますが、そこには生きた社会への深い認識、鋭い洞察がなければならないということを申し上げておきたいのです。
 その意味において、第二の十年に踏み出した創価学会をリードすべき自覚をもつ関西の皆さん方は、更に信心の基盤を固めるとともに、社会に目を開き、社会に雄飛し、社会の勝利者となっていただきたい。そして、情熱と英知とセンスあふれる学会員の模範であってほしい。
5  掲げよ生命の復権
 現在、社会ではさまざまな問題が起こっている。すでに今年の交通事故死傷者数は一万人をはるかに超え、このままでいくと新記録になるのは必至である。また、華々しい脚光を浴びた一昨年の心臓移植手術についても、道義的な問題から疑問が発し、論争の的になっている。更に、沖縄やベトナムではBC兵器(生物化学兵器)をめぐって、激しい論戦が交わされています。
 一方、公害は、連日マスコミに取り上げられ、その深刻さは今後、日を追うごとに、目をおおうばかりになっていくことでありましょう。
 これらの問題は、一見、起こった背景や原因がまったく別のように思われる。しかし、その根本は、すべて生命の問題から発している。生命軽視の風潮と文明――これに対する痛烈な反省がようやくなされてきたのが現代であります。
 ここにして、七〇年代は、はからずも生命の問題に焦点があてられてきた。私はかねてから二十一世紀は生命の世紀でなければならないと述べてまいりましたが、時代の推移は着実にその方向をめざしているといっておきたい。
 現在、人類が脅かされているこの“生命の危機”“生存の危機”を乗り越え、これを打ち破ったときに初めてすべての人々が平和と幸福を築き、生命の世紀が訪れると申し上げたい。私どもの雄叫びが必ずや証明されることは間違いないでありましょう。
 この、人間生命の危機を乗り越え、解決していけるのはだれか。それは生命の究極を解き明かした仏法をたもち、実践している創価学会以外には断じてありません。未来いつの日か、人類から感謝される日が到来することを、私は強く確信しております。
 私ども学会員は、まさにその歴史的転換の最先端に立っているわけであります。先駆には嵐はつきものである。その嵐を誇りとしていただきたい。おのおのが、自らのおかれた立場で使命を大きく感じ、人間の勝利、人間生命の復権を掲げて、きょうから再び勇敢に前進していっていただきたいのであります。(大拍手)
 日女御前御返事にいわく「聖人をあだめば総罰一国にわたる又四天下・又六欲・四禅にわたる、賢人をあだめば但敵人等なり、今日本国の疫病は総罰なり定めて聖人の国にあるをあだむか、山は玉をいだけば草木かれず国に聖人あれば其の国やぶれず、山の草木のかれぬは玉のある故とも愚者はしらず、国のやぶるるは聖人をあだむ故とも愚人はわきまへざるか」と。
 仏法にそむけば一国のみならず全世界に総罰があるとの仰せである。罰とは仏法用語であり、現代的にいえば、生命の破壊、人生・社会のリズムの破壊のことであります。仏法にそむくとは生命の本源に迷い、その尊厳を破壊することである。したがって、仏法にそむけば日本全体が荒廃していくのは、道理からして当然である。
 「山は玉をいだけば草木かれず――」というのは、一応は当時の人々に通ずるように説話的にいわれたのであると思いますが、この場合の“玉”は、今日では生命と約すべきである。山川草木といえどもすべて生命体であると説くのが仏法である。この自然観なくして、真実の人間のすがたを把握することはできない。その生命の根本の迷いを解決できるのが大聖人の仏法であり、その解決以外に、人類の真実の安泰というものはありえない。そのため、私どもはいかなる試練があろうと、妙法を高く掲げて戦わなければならないのです。
 「聖人」とは、いうまでもなく大聖人のことである。その大聖人の仰せをそのまま如来の使いとして実践しているのが創価学会である。
 詮ずるところ学会を磐石にすることが、平和建設の根本的な要因となるのであります。その使命を双肩に担っているのが私どもであるという自覚に立って、前進してまいろうではありませんか。(大拍手)
 最後に、関西の皆さん方のご健康と、ご一家の繁栄を心より祈りつつ、
   生命の 世紀の白馬 今日も征け
 との一句を贈りまして、私の話を終わります。

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