Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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婦人部全国幹部会 令法久住の母体たれ

1970.8.25 「池田大作講演集」第3巻

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10  いかなる苦難にも消えぬ福運の灯
 王日女殿御返事にいわく、
 「仏は真に尊くして物によらず、昔の得勝童子はいさごもちいを仏に供養し奉りて阿育大王あそかだいおうと生れて一閻浮提の主たりき、貧女の我がかしらおろして油と成せしが須弥山を吹きぬきし風も此の火をけさず、されば此の二三の鵞目は日本国を知る人の国を寄せ七宝の塔を忉利とうり天にくみあげたらんにも・すぐるべし」と。
 「仏は真に尊くして物によらず」とは、仏を供養するのにもっとも大切なことは物のたぐい等の形式ではなく、誠意、真心であるとの意味であります。
 私どもは全身全霊を込めて、大御本尊そしてまた日達上人猊下にご奉公の誠意を尽くしてきました。私もこの十年間、皆さん方の代表として、総本山に言語に絶するほどのご奉公をしてまいりました。十年前と現在とを見比べるならば、総本山の姿には天地雲泥の差がある。その功徳は皆さん方が思うぞんぶんに満喫していっていただきたいのであります。
 「昔の得勝童子――」の故事は、あまりにも有名である。仏に土のもちを供養して、偉大な王になる福運をえたとの教えであります。皆さん方の真心の戦いは、これに百千万億倍にすぐれた福運を積んでいるわけであります。
 「貧女の我がかしらをおろして――」とは、“貧女の一灯”として、同じくよく知られている話である。貧女が仏に供養するものをなに一つもっていなかったため、自分の髪を切って売り、それを油にかえて灯明とした。その灯は須弥山を吹き抜ける強風をもってしても消すことができなかったというのです。
 すなわち、信心によって生命に点じられた福運の灯は、人生のいかなる苦難の強風もこれを消すことは断じてできない。更にこれを開いていうならば、皆さん方がこの社会に点じた偉大な妙法の灯も、末法万年尽未来際まで消えることがないであろう、と明言しておきたいのであります。
 「されば此の二三の鵞目は――」とは、王日女が大聖人に二百文、三百文と御供養したお金であります。これは金額にすればわずかでありますが、日本国に統治する人が国家をあげて無量の財宝を供養するよりも、はるかにすぐる功徳があるとの仰せであります。
 現代でいえば、国家権力によってどのようにすばらしい建物、財宝を供養するよりも、貧しい私ども庶民が信心の真心で大御本尊に御供養するほうが、百千万億倍尊いということである。正本堂はその真心の御供養によって建立されている、尊極の大御本尊のお住まいであります。
 この十年間における総本山の見事な変容ぶりは、さきほど申し上げたごとく、想像をはかるに超えた立派なものとなっています。すべて私ども信者の汗と涙で御供養し、荘厳した結果であります。この私どもの真心の御供養は、いかなるものよりも尊いということを、確信と誇りをもって、後世に伝えきっていただきたい。
 更にこの御金言を生活に約していえば、世間の指導者が、いかにすぐれた業績を残したとしても、妙法流布の戦いのほうが、人類および社会に偉大な貢献を果たしているとの御文であります。
 皆さん方は、現在のいかなる人々よりも崇高な大偉業を遂行していると自覚し、スクラムを組んで、誇らかに広宣流布をめざして進んでいってほしいことを、心から念願するものであります。(大拍手)
 現在、俗衆増上慢、道門増上慢、そして僣聖増上慢が見事に出現しました。私どもの修行、実践が日蓮大聖人の御金言といささかも違っていなかった証拠であるということを確信していただきたいのであります。私ども以外に、大聖人の御金言を実践した者はいずこにもなかったと申し上げておきたい。
11  座談会の牙城を完璧に
 最後に、あらゆる機会をとおしてお話ししてきていることでありますが、創価学会前進の最大のポイントは座談会以外にない。座談会の法城が完璧になっているならば、学会は永久に安泰であります。その座談会のうえに広宣流布の大業は進み、完遂することもできる。どうかこの座談会に、皆さんがた婦人部のいちだんの奮起をお願いするものであります。
   人間の 勝利で飾りし 講習会
 との一句を、皆さん方にお贈り申し上げて、私の話を終わります。

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