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日蓮大聖人・池田大作

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勇敢な信心貫こう 第59回本部幹部会

1965.3.28 「会長講演集」第13巻

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5  一般にいわれている有名人は、定めなき浮き草のようなものにすぎません。先日もA新聞のコラムに「マスコミが勝手につくっている有名人の大衆の幻影にすぎない有名がある。偉人と有名人とは根本的に番う。いまは、その偉人と有名人とを混同してしまっている時代だ」という意味の記事がありました。諸君は仏法を持った偉人、有名人になっていただきたい。これこそ本門の偉人であり、有名人であります。
 蓮華の法は、因果倶時であります。日蓮正宗といえば、七百年前からの仏法でありますから、なんとなく古い感じをうけるかもしれません。しかし、二千年以上昔の運の種であっても、今日、立派に花を咲かせているのが実相です。同じく、三大秘法の妙法蓮華経が、いま順縁広布の時きたって、大きく花を咲かせていくわけであります。これ以上の新しい開花現象はないといえるでしょう。
 仏法は体であり世法は影です。これは、常々私どもが口にしている大聖人の御金言であります。自分の持っている師僧、信念、哲学、これが自分の人生に大きく反映することは理の当然であります。御本尊を持って、題目をあげ、実践活動した場合には、事実のうえに、人間革命が進んで、生命力が横溢し、英知がみがかれ、明るく、逞しくなっていきます。これほどたしかな現実の証拠はありません。他の宗教団体、他の思想団体等は、どうみても地獄界の実相であり、また修羅界の行動であり、犠牲をともなった生活であります。論より証拠で、その現実の姿を見れば、裏づけになっている思想、哲学の実態がわかり、また裏づけをみれば、必ず現実の姿がそこに反映しております。皆さん方も大なり小なり、現実の証拠をとおして、御本尊の力、大聖人の生命哲学の正しさというものがおわかりでありましょう。
 どうかいままで以上にしっかり信行学に励んで、一生涯の、深い、強い基礎をつくっていただきたい。特に申し上げたいことは、なんといっても二十代に、大いに勉強するこでする。どれほど勉強しぬいても、まだ足りないくらいでしょう。その勉強も題目をあげたうえでの勉強、本門の勉強をしていくならば、なにもムダはなく、全部生きてしまいます。私も十五、六歳から、三十歳ぐらいまでの時代に、いままでの十倍、百倍ぐらい本を読んだり、書いたり、頭を使っておけばよかったなと反省し悔いております。
 一般の学生と同じような勉強だけで学生時代を終われば、これは普通です。そこでさらに一歩、本源的な、生涯の礎である信行学を実践しておけば、どれほどの力になるかもしれません。ですから信心のうえでも、生活や学問のうえでも、勉強して、勉強して、勉強しぬいて、これほどまでに自分は勉強した、しかしまだ足らない、もっと勉強していこう、書こう、読もう、こう決心して学生時代を立派に生かしていただきたいと思います。長い人生において、その人が将来の栄冠を獲得することは、絶対に間違いありません。人生の基礎は二十代です。これはよく恩師もいわれておりました。二度とこない青春時代、学生時代を決して悔いなく送るために、しいて私は訴えたえるものであります。
6  最後に申し上げたいことは、学生部の幹部会、または部旗授与式などのときにいつも申し上げておりますが、諸君が次の学会の、日本の、そしてまた世界の担い手であるということを忘れないでいただきたい。私自身は、どんな迫害があろうと誹謗があろうと批判があろうと、そんなことはなんとも思ってはおりません。また、いま三障四魔紛然として競い起これば、大悪起これば大善きたるで、必ず大前進できることも確信しております。さらに僣聖増上慢が起これば広宣流布が近いことも知っております。評論家といっても、学会に対してはまだ幼い評論ばかりをしており、とやかく反論する気持ちにもなりませんが、一流の評論家の批判は僣聖増上慢といえます。そのはしりがあることは、必ず広宣流布が間近であるという証拠であり、これほどの喜びはありません。
 大聖人の仏法は一重立ち入った第三の本門であって、いままでの先入観念では解くことのできない仏法であります。世間の人は、いままでの日蓮宗という概念、既成仏教による仏法というイメージ、宗教という概念はもっておりますが、日蓮大聖人の第三の法門、すなわち事の一念三千の大法門は知りません。それを知らないで批判するのは、ちょうど小学校の六年生あたりが微分、積分を論じ、また科学に無知な人間が、相対性原理の四次元世界の話を聞き、内容を会得もしないままその批判をしているようなものであり、全く、笑止千万な話であります。したがって、どのような批判がでようとも、私どもが、大聖人の仏法の奥底を覚知して、社会のため、人類のために戦っていく以外にない。
 諸君が一人前になり、大きく育ち、大活躍できる舞台は私が全部つくってさしあげたい。諸君が成長するまでは厳然と指揮をとってまいります。これだけが私の信条であります。大きい、広宣流布という舞台です。諸君が自分の自体顕照のために、すなわち各自の個性を生かし、どんな社会にあっても思う存分に活躍できるように道はつくっておきます。どうか、その私の気持ちを知って、勇んで進んでいただきたい。
 しかし、なかには自分は信心はいやだ、学会はどうも気にくわない、わかにもっと偉大なる哲学があるかもしれない、自分は自分の人生観で別に行きたいのだという人もあるかもしれない。そういう人は決して私は追いませんが、ただどんな人にも悔いない人生を送ってもらいたいと願うし、大きくあやまる人生コースだけは、踏んでもらいたくないと祈っておるがゆえに大聖人の仏法の実践を強調するのです。共に大聖人の弟子として、人々のために、自分のために、また平和のために戦おうという人は、私と一緒に進みなさい。
 命をかけ、学問を捨てて、政治運動の渦中にはいって、学生時代を生きた人もおります。過去においても政治運動に深入りして犠牲になった青年や学生が何人もいました。また現在までも韓国においては、学生が中心になって、あれだけの大暴動を展開し、政府と戦って犠牲を払っております。考えてみれば、このように日本でも外国でも相当数の学生が、学生時代に血みどろの戦いをしてきています。その半面、平々凡々と、学問をしているのだか、していないのだか、なんのために大学に行っているのだか、わからぬまま卒業を迎え、風前の灯みたいな存在で消えていく人もおります。それはどちらも不幸であります。
 それに比べると創価学会の学生部は堅実です。犠牲は一人もつくらず、自分も最高度に有意義に生ききり、人のためにも働き、そしてまた学問については、それを生かしきるための実践をしております。これが学生部の生き方であります。その点を冷静に見きわめて、しっかり把握して進んでいけば、なんの後顧の憂いもないことがおわかりであると思います。どうか、苦労をいとわず、しっかり勉強をして進んでいただきたい。諸君のご健闘を心から祈っております。

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