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日蓮大聖人・池田大作

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新時代の折伏活動と社会性 新時代の折伏活動と社会(座談会)

1964.7.7 「会長講演集」第12巻

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22  普段の信心が大事、形式は第二義で
  五座三座は、だれでもとうぜん実践すべき修行ですが、たとえば真夜中に帰宅して、どうしてもあげられない場合など、どうでしょうか。
 会長 やむをえない場合もあります。それは本人の自由意思ですから、止めるわけではありませんが、周囲が寝静まっているときでしょう。それもやはり“時”です。夜中は寝る時です。そのときに大声を出して迷惑をかけたりしてはなりません。
 日ごろの信心がしっかりしていれば、題目三遍でもよいし、十遍でもよいし、それできちんとつうずるのです。
  間借り生活や、壁一重のアパートなどですね……。
 会長 そう、同居人とか、寮生活とか、病院の中とか……。題目だけでもけっこうです。小さい声で百遍なり、二百遍なり、きちんと唱えて、五座三座にとらわれる必要はありません。ある場合には、方便品・自我偈・題目と、それでいい場合もあります。
  とくに問題になっているのが、汽車の中と船の中の勤行です。
 会長 信心のうえからはいいことですが、なにも、そのときにあげなくても、ふだん信心をしっかりしておけば、そのときは楽しい旅でいいでしょう。
 それに、社会に与える影響はマイナスになる。奇異な感じを与えます。むしろしないほうがいいと思うのです。法を下げてしまう場合があります。これからは、そういう行き方は是正すべきです。
  九州や北海道から二日も三日もかかって総本山へくるときなど、やはりやらなければと思うらしいのですが。
 会長 それは、本山へ行こうというその因果倶時の信心でつうずるのです。そうでしょう。ちょうど母親思いのむすこが、母親に会いに行く途中“おかあさん、おかあさん”と叫んでいるようなもので、ちょっと奇異に感じます。おかあさんのことを思っていけば、それでいいわけなのです。
  それから、家族に反対されて五座三座ができなかったり、何得信仰の場合ですが、功徳が違うでしょうか。
 会長 信心があれば、同じことです。御授戒をうけたうえの内得信仰ならば功徳は同じと考えてさしつかえない。形式にとらわれて、信心の厚薄は決まりません。信心の深さ、それで功徳の浅深が決定されるのです。ただ信心弱くして、それを口実に信心がなくなっていくことは、厳にいましめなければなりません。
  それから御本尊送りのさいの勤行ですが、みんな、さまざまなのですが。
 会長 これはとうぜん何種類かに分かれるでしょう。家族が反対で、ひじょうに感情的になっている場合など、題目三遍だけで、あとでゆっくり教えてもいいと思います。逆に五座三座を教えてもらいたいというような人に対して、題目だけで帰ってきたのでは無慈悲になります。臨機応変に考えて指導していただきたいと思います。
  初めてですから、一座でもひじょうに長くかかるわけです。
 会長 五座三座をやらなければならないという必要はないでしょう。一座でもいい、方便品と自我偈でもいい、題目だけの場合もある。ただ、御本尊ご安置ということだけははっきりして失礼すべきでしょう。
23  店先などで題目を唱える必要なし
  次に人の家を訪問したとき題目をあげますが、店先で奥のほうを向いてあげたりしますが……。
 会長 これは必要ありません。われわれはうちで題目をあげればいいのですから。
 よその家まで行って、いわんや商売などでいって……、そんなことは絶対してはならないのです。
 ですから、これからは、学会の会合以外で「御本尊様を拝ませてください」などといわれた場合は拒否すべきです。
  そうですね。同志だというと、すぐゆだんしますしね。とくに知らない人など絶対に拒否すべきですね。それに関連しますが、御本尊のないへやで、会合の初めに題目をあげる必要は……。
 会長 必要ありません。原則として御本尊のないへやでは、あげないほうがいいでしょう。実質主義でいきましょう。

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