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日蓮大聖人・池田大作

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末法の功徳は冥益 中国第三本部地区部長会

1964.8.28 「会長講演集」第11巻

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4  それが学会精神です。学会精神とは何か。一生渡、大御本尊様を抱きしめて死んでいくことです。よく戸田先生は、青年部の水滸会などの会合において「宗教革命は死だ。死ぬ決心で戦わなかったならば、なんで宗教革命ができあがるか。広宣流布はできあがるか」と、きびしい、激しい私に対しては指導であり、訓練でありました。
 それはそれとして、私どもの決心は、一生握、御本尊様を放さない、だれがなんといおうと、知ったかぶって学会を批判しようが、ぜんぶそれは皮相的な批判にすぎない。御本尊様がなんであるかの力を知らない。一念三千という大法理はわからないし、それを批判しきった人はいない。一念三千の法理に矛盾があるといって打ち破った学者、評論家、そしてまた批評家はひとりもおりません。
 せんぶ的はずれです。御本尊様を一生握抱きしめて、ゆうゆうと確信に満ちみちて、戦いきっていくことが学会精神です。しょせんは、それが大聖人様の精神につうずるわけであります。
 どうかおのおのの立ち場でいろいろな境遇があると思いますが、また折伏ができるとかできないとか、やれ教学が自分は講師である、あるいはまた助師であるということは、それは、それとして、御本尊様を信ずる、御本尊様のいうとおり行ずるというその一念だけはだれにも負けないというー念がある人は、結局は、尊い人であるし、その人がりっぱな大信者といえるわげであります。
 どうかひとつ、おたがいに励ましあい激励しあって、この有意義な一生を、九仞の功を一箕にに虧くことなく、りっばに終わっていきたいと思います。そしてまた、その功徳を、男の人は妻に、子供に、子孫末代にぜんぶ回向しきっていただきたい。これが私の祈りであります。
5  信心は水のごとく、そしてまた、功徳は冥益です。十年、二十年と信心して初めて大功徳がわくのです。二年や三年信心して、まだ功徳が少ないなどということはおこがましいのです。末法の功徳は冥益です。十年、二十年、変わらず、そして、その変わらずということも進まざるを退転というのですから、進んでいなければならない。背水の陣になったときに初めて宿命転換ができるのですから、その信心に立ったときに人間革命をしきっていけるのです。偉大なる成長があるのです。
 皆さん方も長い信心をしていただきたい。これを要望するのです。五年や七年で自分はたいした長い信心をしていると思ってはいけません。十年、十五年、二十年たって初めて「自分はだいたい、普通の信心になった。長いほうの信心になった。もうこのへんで御本尊様が願いをぜんぶ聞いてくださらないわけはない。厳然たる生活のうえに功徳が出ないわけがない」と、このように思っていただきたいのです。それまでは土壌をつくるというか、土台をつくるというか、その過渡期であるという考えをもってさしつかえないと思います。
 皆さん方は、地区部長以上なのですから、それは当分、かせつ跨節のうえから当分の功徳は絶対あります。とうぜん顕益もあります。だが、ほんとうの意味のこわれない大福運、大功徳は、長い信心で初めて完成されるのです。長い信心をしきって、初めて日蓮大聖人様の仏法を理解することができると、このように考えていただきたいのです。そこまで申し上げておきましょう。

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