Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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宗教革命論  

1955.8.1 「会長講演集」第4巻

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6  四、宗教革命と世界平和
 戦争の残虐・暴動の非なることは、だれびとといえども欲せざるところである。革命は必ず戦争と直結されておった。しかるゆえに、人類の歴史は、個人の幸福、家庭平和、世界の平和と、ひたすら希求してやまなかったのである。
 御書に『汝早く信仰の寸心を改めて速に実乗の一善に帰せよ、然れば則ち三界は皆仏国なり仏国其れ衰んや十方はことごとく宝土なり宝土何ぞ壊れんや、国に衰微無く土に破壊無んば身は是れ安全・心は是れ禅定ならん、此の詞此の言信ず可く崇む可し』と。しかるに右の御書に反し、現実の生活、現実の社会はいかに。
 政治界をみれば、各党派の醜い闘争に終始している。そこには、調和も秩序もない、貧困と腐敗しきった政治のみがあり、白亜の堂は正しく修羅界と化しているのである。
 経済界をみれば、資本家のみが、わが世の春を謳歌し、中小企業者は、事業不振と重税、いな悪税におののき、いつ倒産するやもしれぬのではないだろうか。それにともない、また労使との対立、ストライキ、失業等、その他数えあげれば際限のない現状である。
 政治の貧困と経済界の不況に、国民生活は、年を追うごとに苦に没在していく。
 新聞紙上に目を点ずるとき、一日として陰惨な、凄惨な記事が、ない日があるだろうか。真実の世界平和とは、国土世間、衆生世間、五陰世間ともに確立しきった平和をさすのである。
7  御書に『善に付け悪につけ法華経をすつるは地獄の業なるべし、大願を立てん日本国の位をゆづらむ、法華経をすてて観経等について後生をせよ、父母の頸を刎ん念仏申さずば、なんどの種種の大難・出来すとも智者に我義やぶられずば用いじとなり、其の外の大難・風の前の塵なるべし、我日本の柱とならむ我日本の眼目とならむ我日本の大船とならむ等とちかいし願やぶるべからず』との御宣言は、正しく宗教革命の宣言であり、日本国、世界平和への大宣言でなくして、なんであろうか。
 御書に『天下万民・諸乗一仏乗と成つて妙法独り繁昌せん時、万民一同に南無妙法蓮華経と唱え奉らば吹く風枝をならさず雨つちくれを砕かず、代は羲農の世となりて今生には不祥の災難を払ひ長生の術を得、人法共に不老不死の理顕れん時を各各御覧ぜよ現世安穏の証文疑い有る可からざる者なり』と。
 まことに、日蓮大聖人様の仏法による広宣流布、戒壇建立の暁こそ、宗教革命の終幕であり、世界平和の直道に通ずるものなのである。
8  五、結語
 世界の最大の思想、思潮とするところは、民主主義革命を理想とし標榜としている。しかし民主主義革命といえども、その根底も、宗教革命(平和革命)によらなければ成就できえぬものと確信するものである。
 『自由』と『平等』と『尊厳』とは、民主主義の原理である。第一に『自由』といえども、一念三千・一心法界の仏法の哲学によらなければならず、色心不二の自由こそ真実の自由といえよう。第二に『平等』といえども『凡夫即諸法実相の仏』と説かれし、全民衆等しく十界互具の生命観より出発せる『平等』こそ、真の平等とえいよう。そして永遠の生命に立脚せる『常楽我浄』の自己に生きんとするとき、いかに『尊厳』であること。
 いまや世界の焦点は、宗教革命を成しつつある日本国にあるといえるのである。
 日本国こそ、日本一国を第一歩として、東洋、世界をば指導していく国なのである。その中心が、わが創価学会であることを断言するものである。
 『当品流布の国土とは日本国なり惣じては南閻浮提なり、所化とは日本国の一切衆生なり修行とは無疑曰信の信心の事なり、授与の人とは本化地涌の菩薩なり』云云。
 創価学会の出現は、宗教革命の仏意である。地涌の菩薩の棟梁であられる戸田城聖先生の獅子吼、言々句々は、宗教革命実現への源泉であられる。おもうに、革命への道は平坦でありえぬ。『結句は勝負を決せざらん外は』云云の御金言を瞬時も忘却することなく、いよいよ勇猛精進の信心に励むものである。
 学会員のひとりとして、悠久の歴史に残る未曾有の宗教革命に列なりし、歓喜と襟度と勇気とを持して進まんものである。(当時、参謀室長)

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