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日蓮大聖人・池田大作

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沖縄支部結成大会 最高唯一の日蓮正宗

1960.7.17 「会長講演集」第1巻

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3  したがって、どういう人が、どういうふうに言っても、これから大勢の先生方が、また皆さん方の応援にまいりますから、絶対正しいということをよく知っていっていただきたいのです。これが第一番目です。御書を拝読すれば、明々嚇々です。少し、勉強すれば、もう心配ありません。
 それから、次は理証。道理の理、証拠の証と書きますが、あくまでも宗教は、真実の宗教は、哲学のうえに立っても、科学的な検討のうえからも、微塵も非科学的であってはならないのです。道理正しい宗教でなくてはならないのです。
 人間を神がつくったという宗教、死ねば天国へ行くという宗教、それから水をうんと飲めば病気がなおるというような宗教、死ねば西方十万億土に生まれてくるというような観念的な宗教、そういうような宗教は誤りなのです。ぜんぶ科学的に、ぜんぶ哲学的に、道徳のうえからみて、微塵も狂いのない宗教でなければ、絶対の宗教とは言えないのです。
 日蓮正宗の仏法は、どこからみても矛盾がありません。普遍妥当性があります。科学です。大生命のうえにたった信仰ですから、その確信をもって、邪宗教を破折していただきたいと思います。
 今、大御本尊様は、日蓮大聖人様の御生命です。大聖人様は仏界所具の人間界のお姿、われわれは人間界所具の仏界の生命が、大御本尊様を拝むことによって湧現するのです。この胸中の肉団には、仏界、菩薩界という生命の働きが、地獄界とか餓鬼界とか修羅界と同じように存在しているのです。その最高の生命の力、最高の宇宙の本源の法則、最高の人格の力と申しますか、生命・生活活動の源泉力というものを、大聖人様は御本尊様を拝むことによってその縁に触れて湧現してくるのです。それによって、私どもの物心ともの生活活動があらわれるのです。ですから、あくまでも道理にかなわない宗教は邪教である。科学的でない、哲学もない宗教は邪教であると叫ぶのが、私どもの主張なのです。
 最後に現証。現実の証拠です。論より証拠と申しますが、どんなにりっぱなことを叫んでも、事実、生活のうえに、その証拠が出たか出ないか、幸福の生活になったかならないか、これがもっとも大事なのです。病気がなおったかなおらないか、永遠の生命を獲得したかしないか、絶対の幸福境涯を、安心立命の境地を会得したかしないか、これが証拠になるのです。日蓮正宗の仏法においては、絶対に生活のうえに証拠が出なければならないというのが、大聖人様の仏法なのでございます。
4  他の宗教はりっぱそうなことは言います。言いますけれども証拠は出ません皆さん方も他の宗教をおやりになっておったと思いますが、いくらりっぱそうなことを言ったって、りっぱそうなことを言うからいい宗教ではないのです。りっぱそうなことを言わなければひろまっていかないから、金がもうからないから、りっぱそうなことを言うのです。口などというものは、なんでもりっぱそうなことは言えます。しかし、あくまで日蓮大聖人様は仏様です。政治家でも、ペテン師でもありません。三世永刧の衆生を根本的にお救いくださる仏様です。日蓮大聖人様のおおせにウソはございません。その証拠に、日蓮大聖人様のお残しくだされた御本尊様を拝んだならば、生活のうえに幸福の証拠が出る。この証拠が大事なのです。他の宗教にはこの証拠は出ない。
 日蓮正宗は幸福の証拠がでる。あくまでも皆さん方も証拠をはっきりおつかみになっていただきたい。それは体験です。体験が確信となります。その体験をもって、邪宗教の人々を折伏しきっていただきたいと思うのです。
 因果の理法です。御本尊様を拝む。証拠が出る。原因・結果です。この証拠が出ないような人は観念的なのです。一生懸命信心をしていないということになってしまうのです。ぜんぶ証拠が出るのです。体験が大事なのです。ここから出発するのです。病気がなおったか、なおらないか。金持になったか、ならないか。商売が繁盛したか、しないか。自分の境涯が開いたか、開かないか。信心即生活です。生活のうえに、御本尊様の功徳を燃えあがるほどいただいて、今世の人生を、有意義に暮らしていこうではありませんか。
 それだけ、きょうは申し上げまして、皆さん方の確信の一端でも、強めていただきたいことを切望したします。この次はまた、支部旗ならびに部隊旗の授与式にぜひとも皆さん方のお元気な姿を拝見してきたいと考えておりますから、どうか元気にがんばってください。

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