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日蓮大聖人・池田大作

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1 科学の使命――悲劇を起こさぬために…  

「希望の選択」ディビッド・クリーガー(池田大作全集第110巻)

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11  「利他の行為」をいかに教育するか
 池田 そのとおりです。仏法では、利他の生き方によって、「煩悩」を「智慧」などの「善心」へと変革する道を示しております。大乗仏教では、「煩悩即菩提」と言いますが、「貪欲」や「瞋恚」(暴力性)、「愚癡」(自己中心性)などを、「慈悲」や「信頼」、「非暴力」や「利他」の心に変革することをめざしています。十三世紀の日本の仏法者・日蓮は、この法理を、「煩悩の薪を焼いて菩提の慧火現前するなり」と述べています。
 煩悩の持つ生命エネルギー――この中には、科学や文明発展の原動力となる欲望も含まれますが――を自己と人類の幸福のためのエネルギーへと、質的に転換することにより、「利己」を「利他」へ、「暴力」を「非暴力」へ、そして「不信」を「信」へと転換していくことができる。その「利他」の生き方のなかに、慧火(智慧)が輝いていくと、仏法は説くのです。言うなれば、この智慧によって知識を活用し、「行動のともなう思いやり」の人生を開くのが、菩薩の生き方なのです。
 クリーガー 世界を変革するには、何人の菩薩が必要なのか。あるいは、どれほどの利他の行為が必要なのか。これらは答えられない問いです。ただ言えることは、現在世界に存在する菩薩や利他の行為のみでは足りないということです。もっとふえなくてはなりません。
 これには育成が必要ですが、現行の教育のみではできません。これまでは教育といえば、主に読み書きと算術を教えることだとされてきました。これらは教育の基礎ですが、これだけでは事足りません。人類が一つの生物種として直面している深刻な脅威から脱するには、思いやりと利他の教育が必要です。生命の貴重さと尊厳性を最優先する価値の教育こそが、内なる変革の根底になければなりません。
 科学者と技術者は、しばしば社会のなかでもっとも優秀な頭脳をもった人々の一部であるとされています。彼らは知識を集成し体系化します。しばしば非常に創造的でもあります。しかし思いやりと利他の行為をともなわない科学技術が、現代の人類を破滅の淵に追い込みました。
 ただ頭脳が優秀であればいいというものではありません。ただ知識人であればいいというのでもありません。それだけではなく、一個の人間として、自分が何を創造しているのかをわきまえ、この創造は結果的に何をもたらすのかを、理解していなければなりません。
 池田 大乗仏典の中には、釈尊が、「二乗」と呼ばれる優秀な弟子たちを、厳しく弾呵する場面が描かれています。割れた石が二度とくっつかないように、また炒った種が決して芽を出さないように、おまえたちは決して成道できないと。
 釈尊が彼らを弾呵した本意は、その能力が人並み以上に優れ、他への影響力が大きいにもかかわらず、ややもすれば、みずからのエゴの殼に閉じこもり、利他の行を行わないからでした。釈尊は、頭脳が優秀なだけで、他への思いやりを持たない人間のもつ危険性を危惧したのでしょう。
12  言葉から行動へ――選択と決断
 クリーガー 思いやりのある世界を欲するならば、まず欲する人が、思いやりのある生き方をしなくてはなりません。利他が実行される世界を望むならば、まず望む人が、利他を実行しなくてはなりません。平和な世界を願うならば、まず願う人が、平和を守らねばなりません。公正な世界を念じるならば、まず念じる人が、公正な生き方をしなくてはなりません。
 言葉には変革力がいくらかはありますが、言葉の力は、行動の力には遙かにおよびません。みずからの行動をもって生き、一人一人が周りの人たちの手本にならなくてはなりません。現代に生きるわれわれが、各自の日々の行動と決断によって、われわれが念願する未来の模範を形成しなくてはなりません。
 われわれが現在直面している危機を乗り越えるためには、人間はどう変わらねばならないか。私は、根元的に変わらねばならないと思います。根本的には、「本来の人間」に帰らねばなりません。
 池田 先ほどもふれましたが、ペッチェイ博士と地球の環境問題をめぐって語りあった結論も、危機を乗り越えるためには「人間それ自体の革命」が何としても必要である、ということでした。
 エゴと欲望肯定の文明を転換するためには、具体的な方策を立てることも大事ですが、根底に内面の変革をともなう人間革命がなければ必ず行き詰まります。
 クリーガー 人間は「考える、感情をもった」動物です。われわれ人間はこの世に生をうけ、他の多くの生物と一つの世界に共に生きています。われわれは、この世界を現存のまま次世代に相続させる責任があります。これらの基本に返り、本来の人間に返り、虚栄や見せかけや言い訳のすべてを脱却できれば、所有するのではなく存在する歓び、奪うのではなく与える歓び、他を愛する歓び、これらの素朴な歓びを中心にする幸福、この幸福に満たされる生を営むことができると思うのですが。
 池田 それこそ、限りある地球環境のなかで、人類が共生していくための要諦です。人間の真に平等な生き方は、「自他共に喜ぶ」なかにあるのではないでしょうか。
 クリーガー 種としての人間の発展において、私たちは今、人間らしく生きるために、いくらかの危険を冒さねばならない時点に達しています。この冒険の一つは、人間の間の差異を解決するのに暴力を用いるのではなく、もっと良い方法を探し出すために尽くしていけるかどうか、という意味での冒険です。
 もう一つは、他者のための行為は結局、他者のためになるだけではなく、自分自身の生を豊かにするとの信念を分かちあうことができるかどうか、ということです。
 池田 そうした「冒険」は、今、もっとも求められていることでしょう。発想の転換、人生観・社会観の転換、利己的欲望との闘いという冒険です。
 クリーガー 人類には新しい英雄の群像が必要です。これまでの歴史において他者を敗北させることによって自分の地位を獲得した人は、すべて英雄の台座から失脚させる必要があります。そして彼らに代わる英雄として、たとえば医学における治療法を発見した人、食糧不足の解決法を発見した人、紛争の非暴力的解決手段を発見した人、利他主義の精神を実践してきた人を大切にする必要があります。
 もし人類が、戦争の災難はもとより、現代の人間が直面している他の災難を世界から除去しようとするなら、まずわれわれ自身の心から暴力を追放し、われわれ自身の尊厳は他のすべての人間の尊厳に依っていること、この美しい地球はわれわれだけの惑星ではないことを認識しなくてはなりません。
 池田 世界が相互依存で成り立っていることを、人類は、あらためて認識しなければなりません。単独で存在するものなど、何一つありません。
 現代宇宙論や、生能学の成果、また仏法に説く「縁起」の思想は、まさにそのことを教えたものです。人間と自然、人間と国家・社会、人間と人間――それらの関係性のなかで人間は生を営んでいるのです。それを破壊する戦争、環境破壊は、結局、人間の心の荒廃が外に噴出したものといえるのです。

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