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日蓮大聖人・池田大作

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2 心の詩――自然・人間・宇宙の営み  

「希望の選択」ディビッド・クリーガー(池田大作全集第110巻)

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4  戦争肯定に詩人の資格なし
 クリーガー 私は良き詩歌を愛します。生きている詩歌、自分は人間として何者であるか、自分の本分について何かを教えてくれる詩歌を愛します。
 そのうえで申し上げますと、私はスペイン語の詩人たちに強く惹かれます。彼らの比喩的表現はじつに生き生きとしていて躍動的で、彼らの結びつける関係性や連想は、驚くほど新鮮です。すでに述べたことですが、パブロ・ネルーダが、私のとくに好きな詩人です。そのほか、ホルヘ・ルイス・ボルヘスも、フェデリコ・ガルシア・ロルカも好きです。
 これらの詩人たちは抵抗精神を示していますし、彼らの存在の骨の髄まで人間の尊厳性にかかわっています。彼らのすべてが勇敢で、偉大な表現能力をもった立派な人たちだと、私は思っています。こういった特質を他の言語で示している詩人たちにも惹かれます。アメリカ人のなかでは、ロバート・ブライ、デニス・レヴァートフ、フィリップ・レヴァインの詩を愛読しています。
 彼らはすべて戦争に抵抗しました。ある意味では、この三人のそれぞれが、ベトナム戦争中には自作の詩をもって、兵士たちの銃剣に花を供したと言えます。
 池田 所長のあげられた詩人こそ、いずれも「三つのP」を体現しているのではないでしょうか。しかも命懸けで信念の行動を貫いています。
 戦争は生命を手段化することであり、生命の尊極の価値を否定するものです。戦争を肯定するものは、それだけで詩人の資格を失うとさえ、私は考えます。所長が平和運動に力を注いでおられることと、詩を愛しておられることは、決して無縁ではないでしょう。
 クリーガー そのとおりです。平和と詩歌は、ともに人間の尊厳性への願望と、深い敬意という同じ核心から発しています。また、それとは別の理由によって、私は日本の俳句も楽しみます。良い俳句は、人間精神の機微を突然のひらめきで見抜いて表現します。
 とくに私が好きなのは、松尾芭蕉、与謝蕪村、小林一茶の句です。これらの俳人たちは、詩人として、地上のこと、地上の諸々の生命にかかわるだけではなく、全宇宙にもかかわっています。
 私にとって俳句はシンプリシティー(簡素化)の美意識です。言葉数の稠密な華々しい詩よりも、俳句のほうにずっと心を満たされる思いをすることがあります。
 私が特別に好きな一句は、一茶の「露の世は露の世ながらさりながら」という句です。
 私はこの句に出合い、これは詠み人の人生の悲哀を映しているけれど、しかし世には悲哀以上の何かがありうる、望みはありうるという可能性の感じを伝え得ていると解釈してきました。
 「さりながら」との言葉は「されどされど」という逆説の語の反復と理解されますし、これは、より良い未来がある、その可能性はつねにあるということを示唆していると思われます。しかし、この可能性を生かすかどうかは、私たち一人一人にかかってくると考えます。
 池田 日本の俳句を楽しまれる、所長の関心の広さには驚きます。じつは私も、俳句は好きなのです。日本独特の短詩型文学である俳句は、わずかな言葉のなかに季節感を盛り込み、心の世界を象徴的に表現します。アメリカで俳句が静かなブームになっていることは、私も耳にしています。
 私の句は、創価学会の会員への励ましとして即興で詠むものが多いのですが、いつか所長と一緒に詠む機会があればいいですね。そして日本には、俳句よりもう少し字句が多い短歌というものもあります。所長が短歌にも興味を持たれるよう、あわせて期待したいと思います。
 クリーガー たいへん楽しいだろうと思います。
 短歌のかわりではないですが(笑い)、実りある対話の、ささやかな感謝のしるしとして、私の詩を池田会長にお贈りしたいと思います。
   透明な月
   透明な月流れる水
   春がまたやってきて
   地球はすっかり 生き返る
   青葉の茂み オークの小道
   子らが 笑いながら
   庭を 駆けめぐる
   殼を打ち割って
   新しい生命が生まれる
   冬枯れの草木
   冬眠の動物たちも 目覚める
   足元に広がる 太平洋を
   見下ろしながら
   黄昏の山道を歩く
   エデンの楽園が戻ってくる
   長き春の日ほど
   地球で甘美な時はない  二〇〇〇年 四月
 池田 生命の不思議と自然への感動を、見事に謳いあげた、すばらしい詩です。
 これまでに戴いた詩もそうですが、クリーガー所長の詩には、どれも"生命を慈しむ温かなまなざし"がある。"平和を愛する心"に満ちあふれています。
 クリーガー ありがとうございます。
 池田 続いて、文学と詩の役割、その課題について語りあいたいと思います。
 かつてサルトルは「飢えた子どもの前で文学は何をできるか」(一九六四年四月、「ル・モンド」紙のインタビュー)と問いを発しました。
 確かに文学それ自体は、飢えを満たすことはできない。しかし、サルトルの問いは現実の貧困に対する文学の無力を言ったものというより、文学者の社会的使命の喚起にあったのではないかと、私は思っています。
 日本では、かつて第二次世界大戦の時に、学生たちが大学を繰り上げ卒業させられ、戦争に駆り出されたことがありました。
 彼らは応召にあたり、書物を持って入営しました。
 そして死を眼前にして、最後まで書物を手放さず、死の意味を、自分がこれまで生きてきたことの意味を必死に考え続けた。
 人はパンのみにて生きるものではありません。精神的な飢えこそ、彼らの最大の問題であったのです。日本では、彼らの遺稿集が『きけわだつみのこえ』と題して出版されていますが、そのことがよくわかります。
 端的に言って、文学は精神の不可欠な栄養であると、私は考えます。所長は文学に対してどのような考えをもっておられますか。また、好きな作家や作品について語っていただければと思います。
 クリーガー 文学の価値はじつに高いと私も思っています。「文学」とは、ペンと紙――あるいは今日ではワープロでしょうが――を用いて物語を書くことを意味する、じつにすばらしい言葉です。
 小説の作家は、相互に影響しあう登場人物を創造し、その人物たちの間の揉めごとを解決します。偉大な文学作品は、人間であることはいかなることであるかを説き、他者たちの思想や行為を通して人間精神のさまざまな面や次元を探究させてくれます。ある意味で、文学は、人間の生態や行動とともに人間の精神を研究する試験場を提供してくれます。たとえば、他人の内側に入りこみ、その人の内実、つまりその人であることは何であるかを理解させてくれます。
 また、架空の人物である他者の体験を通して、世界を見たり、さまざまな問題と格闘することを可能にします。こうして私たちは、他の人々の葛藤から学ぶことができるのです。
 それにまた、私たちは文学作品の登場人物に共鳴し、その身になりきることもありますし、これが私たち自身の行動を決めるのに役立つこともあります。
5  文学は人間の魂を救済する
 池田 こうして聞いていますと、所長は私の考えを代弁してくれているような感じにとらわれます。ホメロスの昔から、現代文学にいたるまで、人は文学を通して、精神を成長させてきました。
 人生の透徹した知恵、社会のあり方、人間の持つ偉大さと愚かさ等々、総じて人間という存在の探求は、偉大な文学には共通した要素です。古典が今も読み継がれる理由は、まさにそこにあるといえるでしょう。
 私の師も、文学を通して人生万般にわたる知恵を授けてくれました。あらためて、本当にありがたいことであったと感謝しています。
 創価学会の未来部では読書感想文のコンクールなどを催し、読書を奨励しています。これも文学に親しみ、知性と人格を涵養するきっかけとなれば、との思いからです。
 クリーガー 若い人たちが、偉大な文学にもっと親しみ、それをみずからの教育の一部にして、思想を深めるならば、戦争は起こりにくくなるだろうと思います。またそれによって、若い人たちは、あらゆる文化や、すべての人間に備わる本質的な共通性を、よく理解できるのではないかと思います。
 戦争の本質を認識し、他の人間を殺戮するのは何ら英雄的行為でもないことを理解すれば、若い人たちはみずからが兵士として使われることを許さなくなるでしょう。
 池田 文学には、人間の魂を鍛え、深め、救済する働きがあります。
 その意味では、人間を高め、結びつける宗教は、文学と似ています。聖書も仏典も、ある意味で優れた文学作品といえましょう。優れた文学作品は人類の遺産です。この遺産をどう活用していくかは、人間が「人間として」成長していくために、絶対にさけては通れない問題ではないでしょうか。
 クリーガー 宗教文学は、対話の大きなテーマとなるべき豊かな分野です。
 これまで、世界宗教の偉大な遺産は、あまりにも狭量で冷笑的な形で用いられることが多く、人間の尊厳性を涵養するどころか、ある場合には戦争さえ助長してきました。それは、キリスト教の十字軍や、宗教裁判の歴史を考えればよくわかります。また、宗教の制度化は、しばしば宗教の本来のメッセージを歪め、時には宗教の心や、魂そのものまで奪ってしまう場合がありました。
 一方、偉大な文学や詩歌は、宗教的環境の内外から、われわれの人間的努力を、探求・解明し、人間精神の勝利の模範を示す役割を果たしてきたといえるでしょう。

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