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日蓮大聖人・池田大作

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3「楽観主義」と「漸進主義」  

「希望の選択」ディビッド・クリーガー(池田大作全集第110巻)

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6  漸進主義の意義
 池田 現実から逃げず、たえず現実との闘争を続けるなかで、真の自分に目覚めていく――仏法で、行動を重視するのも、一つはそのためです。
 ここで、理想を実現する具体的な方途について考えていきたいと思いますが、核時代平和財団では「平和の種を蒔く」をモットーに掲げておられますね。
 クリーガー ええ。これは私が非常に重要であると考える理念です。願っただけでは世界は変わらないことを、私たちは認識しており、「平和の種を蒔く」作業こそ、ある意味で、私たちに残された唯一の手段といえるでしょう。私はこれまで、一つの出来事や活動で、世界を変えようとする人たちを多く見てきました。そういう人たちは行動力に満ちあふれ、きわめて情熱的です。
 しかし問題は、理想を実現するためには、それだけでは十分でないことにあります。自分たちが行動したにもかかわらず、世界が劇的に変わらなかった時、そうした人たちは幻滅して、あきらめてしまうことが多いのです。活力に満ちた人たちが、平和の種を蒔く作業をやめ、結局はあきらめてしまう例を、私は多く見てきました。それは大きな損失というものです。
 池田 まったく同感です。ガンジーが「善いことというものは、カタツムリの速度で動くものである」(坂本徳松『ガンジー』旺文社)と述べたように、平和運動は漸進的に進めていくべきものであり、一気に事を進めようとする急進的な手法では長続きしない場合が多い。
 ともすれば漸進主義は、妥協や時間かせぎといった消極的な意味合いで理解されてきたきらいがありますが、決してそうではない。本当に「勇気」と「忍耐力」のある人しかできないものです。
 誠実な対話を通し、一人一人の心に平和の種を蒔きながら、多くの人々の理解と納得を得ていくしか、真に時代を変革することはできません。迂遠のようでも、これが平和創出の王道なのです。
 クリーガー 会長がおっしゃるように、平和の種を蒔くことには強い忍耐力が求められます。
 ただ種を蒔くだけでなく、それを育てることも必要であり、然るのちに収穫を得ることができるのです。この意味で、"種を蒔く"という理念は、平和が一つのプロセス、持続的な献身を必要とするプロセスであることを人々が理解するのに役立つことでしょう。
 平和の種を蒔く作業に実際にたずさわる時には、その種がよく育つ「新しい方法」と、「肥沃な大地」を探し求めるでしょうから。
 池田 私もそうした思いをこめて、一九七五年(昭和五十年)のグアム島でのSGIの発足にあたって、「自分自身が花を咲かせようという気持ちでなく、全世界に平和の種を蒔いて尊い一生を送ろう」と呼びかけたことがあります。
 クリーガー まことに崇高な言葉です。そのような生き方こそ、自分の人生を、より意義あるものにすると思います。長期の献身を持続するには、平和そのものが目的でなければならないのです。
 よりよき平和な世界をめざし献身しようとする人は、その活動のなかに、そして困難に勝つ努力のなかに、自身の喜びを見いださねばなりません。また、同じ目標に向かう人々とともに前進できる喜びも、味わうことができるでしょう。
7  何があってもあきらめない楽観主義
 池田 こうした漸進主義の行動を支える原動力になるのが、「何があってもあきらめない楽観主義」と、「民衆の力に対する限りない信頼」といえますね。
 平和学者のガルトゥング博士も、青年へのメッセージとして、「頭は現実主義であれ。そして、心には理想主義の炎を燃やし続けよ」と語っておられました。
 この両輪をあわせ持つことが、変革を現実のものとするための要件だと私も思います。
 現実をしっかり見据えながらも、決してそこに埋没したり、安住しない。つねに楽観主義という理想への炎を燃やしながら、道なき道を切り開いていく資質が現代人には求められると思います。
 クリーガー 会長のおっしゃる「何があってもあきらめない楽観主義」が、私は大好きです。私たちは、楽観主義を選びとる必要があります。それが「希望」を「選択」していることになるでしょう。しかしこれを維持するために、時として精神面での大闘争が必要となるように思われます。
 人間は正義が勝利すると信じたい。けれどもつねにそれが勝利するとはかぎらないことを、人生のなかでしばしば教えられます。多くの人々が不当な苦しみを受ける場合は少なくありませんし、法律でさえもつねに正当であるとは限らないのです。ですから、「何があってもあきらめない楽観主義」は、ある部分、鍛錬と献身の賜物といってよいでしょう。
 池田 理想への情熱を失うことなく、たえず現実の問題と格闘し続けてこられた所長のお言葉だけに、重みがあります。そこでお聞きしたいのですが、人々が現実主義的な思考から脱け出し、理想の実現をめざして生きていくためには、何が必要であると考えますか。
 クリーガー それには何といっても、確信と決意が大切であると思います。
 まず理想を持ち、その理想が"闘い取る価値のあるもの"であることを信じることです。よりよき世界を創造することが、"可能である"との信念を持続することが必要です。現実主義的なアプローチと訣別するには、自己満足の鉄鎖を断ち切らねばなりません。
 これは、決してやさしいことではありませんが、このような生き方をする人は、他の人々の模範となり、先達となります。自己の理想に忠実に生きた人生は、必ずや他の人々の人生に、影響をおよぼしていくのです。
8  民衆を強く賢明にする「教育」の力
 池田 一言で「戦争をなくす」といっても、民衆が立ち上がり、権力の暴走を止める力をもたなければ、戦争の悲劇はやむことはないでしょう。
 その意味でも、民衆一人一人が賢明になり、強くなり、連帯していくことが必要ですね。
 クリーガー 一人一人が、自身の英知や力量、団結心を十分に発揮できるような社会を創造することは、大きな挑戦です。これは、基本的には、教育の問題であると思います。
 そのような社会では、指導者たちもこうした資質を備えていますので、監視されたり、窮屈な抑制を受ける必要はないでしょう。しかしながら、今日のほとんどの社会は、この理想とは、ほど遠い状態にあります。よって、教育の重要な要素として、批判精神と独立心に富む思考力を培うことが大切になるのです。
 批判精神にもとづいて思考することにより、人間は当然のこととされてきた考え方に挑戦し、論理的基盤に立って、さまざまな要因を認識して、自分なりの判断に達することができるのです。
 自分で思考するためには、「考える力」に自信をもつことが必要でしょう。人々にその自信をもたせることも、重要であり、奨励されるべきです。私はベトナム戦争中、アメリカを風靡した、
 車のバンパーに張るステッカーにあった「権力に挑戦せよ」という言葉を思い出します。
 皆が自分の力で思考し、政治的権力者たちが行っている違法で倫理に反した戦争に協力しないというのが、メッセージの根底にあったのです。
 池田 そうでしたか。師もつねに「心して政治を監視せよ」と教えていました。そして、暴走する危険性をもつ権力を、人間のため、民衆のためという本来の方向に向かわせる原動力が教育であると強調していたのです。
 かつてほとんどの権力者は、民衆を飼い慣らすために、教育から遠ざけようと腐心してきました。教育が整備される時代に入っても、それは、権力への忠誠心を植えつけるためだけのもので、民衆が自分の力で考えるための教育は、長らく妨げられてきたと言えるでしょう。
 独裁者というのは、教育の発展を恐れるものです。本能的な嗅覚で、人々を無智のままにし、権威に従属する存在にしておきたいと思うからです。
 同様に、人間を隷属させようとする悪しき宗教も、教育の力を恐れ、教育に尽力する人を迫害してきた歴史がありました。教育がなければ、人間はやすやすと政治的権威や宗教的権威の奴隷になってしまう危険性がある。民衆がだまされ続ける限り、権力者はますます横暴になっていく――この悪循環を断ち切らねばなりません。断じて、戦わなければなりません。
 クリーガー まったく同感です。人々がみずから思考し、権力を自発的に監視する社会では、国家が弾圧や非道な行為を犯すことはむずかしくなるでしょう。民衆は日常生活のなかで批判精神を持ち、必要な時には権力の横暴を阻止するのに積極的でなければなりません。
 もちろん、政権が独裁的で抑圧的である場合は、権力への挑戦はより困難となるでしょう。しかし、その場合は国際社会が介入し、権力に挑戦する人々への権利侵害をやめさせなければなりません。

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