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日蓮大聖人・池田大作

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“シルクロード”と文化交流の意義  

「美しき獅子の魂」アクシニア・D・ジュロヴァ(池田大作全集第109巻)

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8  ジュロヴァ シルクロードは、宗教的、文化的、芸術的モチーフやスタイルが相互浸透するのを容易にした、大陸横断的なリンクでした。七世紀から十世紀にかけて、シルクロードの隊商が結びつけたビザンチン、イラン、中央アジア、および中国の美術は、相互にきわめて強く影響しあったのです。当時の特徴として、各国の芸術が非常に多様性に富んでいたことがありました。
 他方、ビザンチウムの力が頂点に達した十一世紀から十二世紀にかけて、ビザンチン帝国内の芸術は画一化されてしまいました。また、スラブの地でも同じようなことが起こりました。スラブでは、初期には、芸術のテーマやモチーフ、スタイルなどはきわめて多様であり、同質性が欠けていたために、学者たちはそれらを折衷主義と特徴づけていたのですが。
 シルクロードはまた、中央アジアを起源とするネストリウス派や、ボゴミールの章で論じたような、異端の拡大をも容易にしました。
 東アジアと西アジアが接するメソポタミアでは、シルクロード沿いに大商業都市が発達しました。これらの都市は、あらゆる芸術的要素を普及させました。それらの要素のなかには、たがいにまったく関連のない文化を起源とするものもあったのです。
 池田 シルクロードは、一面では軍隊が移動する道となり、多くの戦乱の舞台になりました。しかし、一時的な戦乱はあったとしても、戦争は人々の文化交流の流れを断ち切ることはできなかったと思われますが、いかがでしょうか。
 ジュロヴァ そのとおりです。七世紀には、キリスト教徒とイスラム教徒の間でしばしば戦争が勃発しましたが、東西の絆を断ち切ることはありませんでした。西方教会は東方正教会とは違って、一枚岩的にまとまっていましたが、それでも、シリア、パレスチナ、エジプトからのキリスト教徒を受け入れるのにやぶさかではありませんでした。こうした人々が大寺院を建立し、当時(ガリア、アイルランドなどに)存在していた修道院を改築したのです。
 ビザンチウムおよび中央アジアの芸術は、絶えず西洋に伝えられました。また、西洋においては、キリスト教が東洋から伝わったという事実も忘れられたことはありませんでした。
 池田 東西の戦争として忘れてならないものに十字軍の遠征があります。もちろん、この企ては西側からすれば軍事的には完全な失敗に終わり、多くの惨事をもたらしました。しかし反面では、東西の文化交流が進むことによって、西欧人の精神に重大な変化が生じました。
 すなわち、それまでは異教徒に対して観念的な理解しかなかったのが、実際に宗教を異にする人々と接触することによって、西欧人の視野が地球的な規模に広がり、異教徒との平和的共存が意識されるようになったと言われるのです。
 十字軍の事例は、戦争でさえも人々の心を閉ざすことはできないという事実を示す、一つの典型ではないかと思われます。
 ジュロヴァ おっしゃるとおりです。十字軍の遠征の結果、西洋は十一世紀末に中東文明圏のなかに巻きこまれました。十二世紀の西洋芸術、とくに、ロマネスク芸術に消えることのない痕跡を残したのは東方である、ということを忘れてはなりません。スペインのムーア芸術もまた、イスラムの全般的な文化的影響とは切り離すことはできないのではないでしょうか。
 実際、コンスタンチノープルを東西の「金の橋」であるとする表現は、ヨーロッパ、アジア、およびアフリカが接触する、ビザンチン帝国にも当てはまります。ビザンチウムは、これら三つの大陸の分水嶺でもあります。
 その多民族国家では、同地に存在する多くの文化層に対応し、また個々の文化の創造に対応して、統合と選択のプロセスが展開されました。たとえば、ギリシャ・東欧地域はギリシャ風になりましたが、それは表面的な現象にすぎません。ビザンチウムとアルメニア、ササン朝イラン、および後にはアラブとの密接な結びつきが、急激な変化ではないにしてもビザンチン文化に影響をあたえたのです。
 ビザンチウムは、インドおよび中国からピレネー山脈にいたるまで、活発な商取引を行いました。その交易路は、陸路も海路もシルクロードを通り、さまざまな思想と文化の交流を促進しました。そのために、ビザンチウムは多様な文化を持つ帝国となりましたが、ビザンチウム独自の特徴を失うことはありませんでした。
9  池田 ブルガリアの文化も、ビザンチン文化と同様、多彩な文化を取り入れながらも独自性を保ち続けていますね。
 ジュロヴァ そうです。ブルガリアの文化は、オスマン・トルコ支配下で強制的に閉鎖させられていた時代を除けば、つねに開かれた文化でした。しかし、開放的であることは決してわが国の特色を失わせるものではなかったと、私は考えます。
 文化というものは、接触なしに芽生えたり、発展したりするものではありません。そして、多くの文化の層が存在することが、文化的伝統を積み重ねていく上での必須条件であります。その文化の層は、文化の記憶から成り、また高められた選択能力から成り立っています。
 池田 まさにそのとおりです。人間個人について考えても、どのような可能性があっても、他からの刺激がなければその可能性が開花することはありません。
 その外からの刺激を仏教では「縁」と言いますが、よりよい「縁」を求めていく開かれた態度が、個人の可能性を顕現するポイントになります。今までの自分に安住し、閉じこもっていたならば、新しい発展はありません。
 一国の文化においても同様のことが言えるでしょう。外に対して自身を開いていく積極性、勇気が文化の発展のためにも必要であると思います。
 ジュロヴァ その顕著な例として、シルクロードを舞台とした文化交流の成果を、私は奈良ではっきりと見ることができました。私は奈良には二度、訪問したことがあります。奈良が、文字どおり、複合的な史跡が集まった地であると断言するのは私一人ではないでしょう。
 東大寺の寺院建築はギリシャ宮殿の柱廊を彷彿とさせ、法隆寺の壁画はインドのアジャンターの石窟を彷彿とさせました。もし、美術史家が、奈良でキャベツヤシのモチーフを見れば、その発祥地や、エジプト、アッシリア、ギリシャ、中近東からはるばる日本へと移入された道程を、生涯をかけて調査・研究したいと思うことでしょう。
 伝統と影響の融合が、発展期にある日本という若い国家に、文化的「折衷主義」を生みだしました。しかし、この「折衷主義」は、すでに、新しい文化の独創性を示すような、偉大な内実と、多くの特徴をそなえていたのです。
 池田 東大寺の境内にある正倉院は、八世紀の宝物が保存されていることで世界的に有名です。その宝物は調度品、文房具、楽器、仏具、服飾類、香薬類など多様ですが、素材、意匠には明らかにトルコ、イランやアフガニスタンなど西域に由来すると見られるものが多数あります。
 それらの写真をながめるだけでも、ユーラシア大陸全体にわたる歴史のロマンに思いをはせることができます。確かに、日本がシルクロードの「東」の到達点だったのです。
10  ジュロヴァ ところで、先生が企画されているシルクロードに関するご計画について、音楽文化以外にも何かありましたならば、ぜひおうかがいしたいと思います。
 「対話の道」とも名づけられるこのプロジェクトは、とても興味深いものです。と言うのも、近代主義は、普遍的な理想やモデルを再発見したいということ、つまり、価値基準を画一化し、一つの観点から世界を取り込みたいという野心を持つものですが、このプロジェクトは、その野心をこえるだけでなく、近代主義が持つもう一つの野心――西洋中心主義と、今ではアメリカ中心主義――の限界性をも、こえゆくものとなるからです。
 そしておそらく、このプロジェクトは、膨大な異質な諸文化が、かつては相互に対話をし、協力しあっていたことを、明らかにするでしょう。そうした対話や協力の結果として、諸文明が発生し、繁栄し、衰退していったのです。このプロジェクトは、私たちが現在、大いに必要としている、真実の異文化交流が持つ価値を実証することでしょう。
 池田 シルクロードに関する事業としましては、すでに第三章の「写本」の項で紹介し、論じてありますが、一九九八年にロシア科学アカデミー東洋学研究所(サンクトペテルブルク支部)の支援により「法華経とシルクロード」展をSGI(創価学会インタナショナル)の会館で開催しております。この展示会には、写本以外にソグド語の文献、八世紀のものと推定される皮革文書、木簡文書も出品されており、関心を呼びました。
 同研究所と私が創立した東洋哲学研究所では、数年前から学術交流が活発に進められており、サンクトペテルブルク支部の建物には東洋哲学研究所のロシア・センターが開設されています。
 学術機関との交流としては、中国の敦煌研究院やトルファン博物館、新●ウイグル自治区博物館などとの交流も進んでいます。また創価大学では、ウズベキスタン共和国との共同事業としてカラ・テパ遺跡の発掘を行い、ストゥーパ(塔)を発見するなどの実績を上げています。音楽はもちろん、これらの文化・学術交流を、これからもさらに幅広く進めていきたいと念願しております。
 博士は、ブルガリアの文化が開放的であるとともにみずからの特色を保っていたことを強調されましたが、この点は文化を考える上でたいへんに重要であると思われます。まさに、他の文化に対して開かれていることと、みずからの独自性を尊重していくことが、これからの人類文化を豊かなものにしていくための要諦であると考えるからです。
 他に対して開かれているということは、他の文化を尊重していくことです。それぞれの文化には、たとえ素朴なものであったとしても、それを育んできた歴史と風土があり、人々が懸命に生きてきた生の積み重ねがあります。その生体験に敬意をはらう心こそが、文化交流をより豊かなものにしていくためには不可欠です。自分たちの文化こそすべての面にわたって最高であるという「傲慢」は、結局、みずからを貧しいものにしてしまうからです。
 また、反面では、みずからの文化的独自性を失っていくことも正しいあり方とは思えません。それぞれの文化は、人間がそれぞれ異なるように、すべて独自のものです。世界中のどの国の人も、各自の文化に誇りと自信を持つべきです。他の文化から学びつつ、みずからの土壌の上にそれぞれの文化を生みだそうとする主体性が求められるのです。

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