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日蓮大聖人・池田大作

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伝統と近代化について  

「美しき獅子の魂」アクシニア・D・ジュロヴァ(池田大作全集第109巻)

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9  ジュロヴァ 現代世界は、産業化によって機能的かつ一面的に構造づけられており、“美”も純粋に機能的な言葉で解釈されています。そのなかにあって、破壊された自然の叫びが、深刻な生態系の危機を知らせていますね。過去数年間に、人間性にあふれた場をつくり上げる試みや、人間と建物の間に精神的な絆を打ち立てる試みがなされてきました。
 叙情性と都市化を組み合わせようとの試みの一つは、ポスト前衛主義をもたらしました。コンクリートは、鏡のような表面を持った金属やガラスに道をゆずり、一風変わった“現代の怪物”が出現したのです。それらの建物は、古代のピラミッドやジグラット(古代バビロニアやアッシリアのピラミッド形の神殿)、ゴシックやルネサンスの大聖堂、より近くはビクトリア朝の建物に似ています。
 それらは、前世紀末における建築や都市計画上の問題を思い起こさせます。それらは、「教会的な」様式へのノスタルジーを表現したものであり、建築は世界を救うことができるという理念に沿った、フランクライトやル・コルビュジエのような建築家のイメージを喚起させるのです。
 幾人かの現代の建築家たちがいだく希望に満ちた楽観主義は、前世紀末と今世紀初めの建築家たちに見られた情熱と似ています。彼らは、自国の市民というよりは世界市民でした。彼らの青写真は、自国でも外国でも同じように成功したからです。私は、丹下健三氏の「ポート・アイランド」、リチャード・フラーの「カンザス市の地下都市」、パオロ・ソレリーの「アリゾナのサン・シティ」を思い浮かべています。
 先生は、彼らの青写真に対して、どのような未来を予想されるでしょうか。また、未来の巨大都市における生活について、アーノルド・トインビーは、どのように予想していたのでしょうか。
 池田 トインビー博士は、行きすぎた都市化を憂慮されていました。現代的な高層建築に住む人々が、人間的接触を失うことを指摘されていました。そして、むしろ、未来の安定した状態に達するためには、発展途上国の方が困難が少ないであろう、との人類史の逆転も示唆されていました。(『二十一世紀への対話』、本全集第3巻収録)
 丹下健三氏やル・コルビュジエの偉大な才能には、尊敬の念を持っております。それと同時に私は、彼らのような整然とした合理的な建築の流れとともに、たとえば、著名な社会学者のクリフォード・ギアーツらがその有効性を指摘している、たくさんの家々が一見、無造作にひしめき合っているイスラムのスーク(バザール)都市のような構造も、今後、試みられるべきだと思います。
 スークのような都市は、たくさんの細胞から成り立つ生体組織とよく似ています。長い時間を費やして、自然発生的に、さまざまな諸要求や利便性を調整しながら、もっとも生活しやすいようになっていった町並みです。そこには生身の人間同士の出会いがあります。現代人は、そのような出会いを避ける傾向がありますが、その結果、孤立した個人を多く生みだしてしまいました。それゆえに、都市計画のなかにも、人間と人間とが出会う空間をもっとつくるべきです。
10  ジュロヴァ なるほど。一つお聞きしたいことがあります。黒川紀章氏の建築的・都市計画的作品の基盤にある哲学についてです。それは、今日の世界において支配的になっている“機能的な建物”から失われてしまったヒューマニズムを復権させるのでしょうか。黒川氏の意欲的で創造的な考え方は、非常に魅力的です。なぜなら、氏は、みずから名づけた「文化間主義」の現代にあって、人間と自然、人間と科学技術、人間と歴史の間をふたたび結びつけたいと望んでいるからです。
 池田 黒川紀章氏の国際的な活躍には目を見張るものがあります。最近の例では、一九九三年に建てられたパリのラ・デファンスのパシフィック・タワーが有名ですね。氏の建築はつねに挑戦的であり、そのつど、時代的課題にも果敢に取り組んでおられます。建築だけではなく、書物やさまざまなメディアでも、積極的に発言されています。
 氏は、その活躍の最初期に、メタボリズムという考え方で、さまざまな提案や作品を発表しています。メタボリズムとは「新陳代謝」の意味です。この言葉から連想されるように、生体のイメージが意識されています。そこに、東洋的な生物と無生物の「共生のモチーフ」を見ることもできるでしょう。ただ、このメタボリズムの運動は、日本が経済成長の上り坂を高速で上昇していた時に全盛を迎えたゆえに、テクノロジーに対する信頼が強く意識されたものである、との指摘もしばしばなされるところです。
 メタボリズムに対して、それは、あまりにテクノロジーの未来に楽観的すぎる、と批判する動きが、イタリアの建築家たちから生まれました。たとえば、一九七〇年代終わりのレンゾ・ピアノ氏のポンピドーセンターですが、一見、メタボリズムとよく似て、テクノロジーを全面に押し出した形をとりますが、全面的に押し出したがゆえに、テクノロジーの限界を予見させるようなものに仕上がっています。
 ピアノ氏の作品は、その後、構造も、素材も、非常に軽やかなものに変わっています。鳥の羽根を模した関西国際空港のターミナルビル、自然を模したIBM巡回パビリオンなど、自然からの影響を受け、それによって自分の立脚点である建築の概念をも変えていこう、という意欲が見受けられます。
 いずれにしろ、今後の建築は、伝統と革新、自然と人工、民族的要素と国際的要素などの調和を図ることが必要です。そのためには、二元論的対立をこえゆく仏教の「空」の立場が大きな意味を持ってくると思います。
 ジュロヴァ 「レトロ(古風なもの)、伝統的なもの」の流行と、「未来学」への高まる関心――一見、矛盾する現代の二つの流れは、人々の失われた調和へのノスタルジーと、未来へ逃れたいとの願いを裏づけるものです。現代人が、苦闘しつつも根気強く、新しい文化を模索しているのは、おそらく、何とかして、この二つの調和を図ろうとしているからでしょう。

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