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日蓮大聖人・池田大作

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芸術のあり方  

「美しき獅子の魂」アクシニア・D・ジュロヴァ(池田大作全集第109巻)

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13  ジュロヴァ 私の知るかぎり、仏教芸術は、自発的で創造的なほとばしりによって、内向的な啓示をもたらします。日本の芸術は、静かで抽象的な瞑想に限定されてはいません。おそらく、日本の芸術は、少なくとも第二次世界大戦前には、ヨーロッパ的な創造的な活動性を示していたのではないでしょうか。
 私の考えでは、世界的レベルでの日本の芸術のきわめて重大な貢献は、その“実際性”であると思います。美に対する卓絶した“絶妙さ”と、鋭い感覚が、現代の日常生活のなかにも明らかに見受けられます。貴国にとって、美は、つねに具体的なものなのです。そして、こうした理由から、貴国の芸術は、第二次世界大戦末期からヨーロッパとアメリカの芸術に刻印された反美学的な動向には従わなかったのです。
 池田 『法華経』が日本の文化、とくに、芸術にあたえた精神的影響については、第二章で紹介しましたが、『法華経』には、「治生産業、皆、実相と違背せず」とあります。現実の生活のすべてが仏教なのだと説いています。仏教は、日常生活、社会生活のなかに反映すべきであることを訴えています。日本の芸術についても、生活のなかに芸術が積極的に取り入れられているのは、そうした仏教が教える精神基盤に通じるものだと思います。
 ジュロヴァ 世紀の転換期にあって、文化に対しては二つの顕著な傾向が見られました。一つは文化を統合するものであり、もう一つは自国の文化の特徴を保持するものです。ブルガリア国民学校が創設されたのは、まさに、後者の観点からでした。
 「自己のもの」と「自己以外のもの」との区別は、昔からよく知られたものでしたが、それが、「ナショナル」か「インターナショナル」かのジレンマとして表れました。自分自身の伝統の内部での発展を追求するのか、あるいは「私たちのでないもの」を浸透させるために門を開くのかということです。十九世紀末に、ヨーロッパのナショナリズムの真っただ中で、典型的なスラブ的な感情を失うおそれから、ロシアの作家の幾人かは、「ロシア的であること」を強めたのです。
 しかし、自己の革新がなされるならば、つまり、新しい動向が各国の伝統のなかに吸収されるならば、いかなる発展も可能です。一九〇〇年代に、伝統的なものと前衛的なものとの“絆”をつくったのは、革新だったのです。
14  池田 そのとおりです。「ナショナルなもの」と「インターナショナルなもの」を創造的に超克していく試みのなかに、独自性を保ちながらも、世界性、普遍性を包含した作品ができ上がっていくのだと思います。
 ジュロヴァ 二十世紀末の現在、ものごとは大きく変化してきましたが、芸術が本来持っている役割が、別のものにとってかわられたとは思えません。現在、現代社会における“神経組織”は、経済市場や情報システムによって構成され、権力もまた市場によってもたらされ得るようになっています。そのような時にあたり、芸術は、愛情の心をもって合理的な理性を統一することを訴える義務を負っています。個人的な貪欲を克服し、忘れてしまった知恵を回復し、精神的覚醒を訴えることによって、それは達成されるでしょう。
 私は、芸術が、精神的完成への手段としての役割を持っていることを信じています。それこそ、芸術本来の役割であり、芸術は、“善”の名において、人々を結びつける努力に貢献しなければならないのです。

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