Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

聖徳太子と大乗仏教  

「美しき獅子の魂」アクシニア・D・ジュロヴァ(池田大作全集第109巻)

前後
12  池田 そのとおりです。『ギーター』においては、「カルマ・ヨーガ」すなわち、「為すべきことを為すこと」、「義務」の重要性が強調されます。まず「為すべきこと」への洞察、反省があるべきなのです。みずからの行為が、社会に創造的価値を付与し得るのか、それとも、いっそうの混沌をあたえるのか――それを見抜くエゴイズムをこえた“知恵の目”が必要なのです。
 竜樹の主張も同じでしょう。彼の主張する「空の論理」も、エゴイズムをこえた利他の行動の可能な一点への洞察であったのです。彼がある国王をいさめた手紙が残っていますが、「空」が決して厭世主義ではなかったことが、それを見れば分かります。
 仏教が中国に入った時、「空」はたんなる否定である「無」と解釈されました。そして、それは「有」と対立する概念とされたのです。「無」と「有」などという分断的な認識こそ「空」である、と見ることの重要性を仏教は説いていたはずなのですが、「空」はそのような分断的な認識の一項になってしまったのです。そして、老子の「無為」の通俗的解釈と同一化され、ニヒリスティックで逃避的な原理とされていったのです。
 「空」と「無為」は、博士が洞察されているように、また先ほどから述べているように、すべての先入観や作為をこえた利他の行動を支えるものであり、それらは深いところで類似したことを示唆していたのです。それが、まったく逆に、皮相的なところで、類似の概念であると思われるにいたったのです。
 とくに、日本では、「無為」や「空」が、厭世主義と受け取られてしまった歴史がありました。情緒的な隠遁主義におちいってしまったのです。第二次大戦中に、多くの日本の仏教教団が、“翼賛体制”に迎合していったという、まことに残念な歴史にも、その情緒的な隠遁主義の影が見てとれます。
 本来は、「無為」や「空の論理」は、利他への強靭な精神の営みであったのですが、その根本精神をまったく喪失した多くの仏教教団は、東洋の諸民族への侵略に加担していったのです。
13  ジュロヴァ よく分かりました。それでは、先ほど出てきました「律令制度」に戻りたいと思います。
 七世紀から九世紀までの間、日本の政治機構は、刑法である「律」、および行政法である「令」に基づいた、いわゆる律令によって統治されました。この政治機構は興味深いものですので、くわしく聞かせていただければ幸いです。
 池田 東アジアでは、隋に続き、六世紀に強大な唐がおこりました。これが東アジア全域に大きな脅威となったのです。朝鮮半島では新羅、百済、高句麗の三国がたがいに覇権を争いながら、統一のうねりが大きくなってきました。
 聖徳太子は、中国の中央集権的な文化、および東アジアの共通の文化基盤であった仏教をとり入れ、日本においても中央集権的な国家をつくり上げようとしました。
 さまざまな混乱を経て、七世紀末の天武、持統両帝の時に、太子の悲願は実現し、唐の「律令制」を導入した中央集権的な国家が成立したのです。
 「律」とは刑法にあたり、「令」はそれ以外の法規です。日本の天皇制は当時、唐の皇帝ほどの専制的権力を持っていませんでした。簡単に言えば、唐の律令制は強大な権力を持つ皇帝がつくったのに対し、日本の律令制は、天皇の権力をより確実なものとするためにつくられた、と言ってもよいかもしれません。
 権力の中枢は、天皇およびその親族や有力豪族から構成されていました。支配者たちは私有地、私有民を手放しましたが、そのかわり天皇の権威、中央集権的国家機構を背景に、国家官僚として土地と民を支配しました。
 地方には、国司、郡司、里長が置かれました。完璧な中央集権的国家体制ならば、本来、この順に権力が弱くなるはずですが、中央機構から派遣された国司と地方豪族が任命された郡司が並んでいたのが実情です。
14  ジュロヴァ よく分かりました。次に、大乗仏教はたいへん普遍的な性格を持っていますので、“異教”を生む原因となる、“正統”と“逸脱”の区別はなかったと理解していますが、これは正しいでしょうか。もし正しいとするならば“異端”あるいは“異教”がないことが、かえって、仏教が改革を行う機会を失ってしまうことにもならないでしょうか。
 池田 ご質問の大乗仏教と“異端”との関係について述べてみたいと思います。
 七九四年、チベットのサムエという寺院で大法論が行われました。法論の主人公の一方は、仏教史上その名をとどろかせる大論師・竜樹直流のカマラシーラ、もう一方は中国の南頓禅の摩訶衍という僧侶でした。
 摩訶衍は、何も考えず何も思わない座禅の修行によって一人覚りを得ることが、仏教の目的であって、他人を救う利他の実践を行う必要はないと主張しました。それに対して、カマラシーラは、利他行の実践によって慈悲と知恵を得ることこそ、仏教の目的であると主張したのです。勝敗は明らかでした。とは言っても、摩訶衍派が異端として皆殺しにされたり、追放されたのではありません。むしろ、逆恨みした摩訶衍一派が、さまざまな陰謀を画策したと言われています。
 仏教の歴史のなかで、さまざまな論争はつねに行われてきました。竜樹やその弟子たちも、対論相手から「すべてを否定するもの」と呼ばれたくらい、歯に衣着せない論陣をはったのです。しかし、彼は世俗的権力に訴えて、他学派を弾圧することはありませんでした。
 仏教では、釈尊以来、あくまで「対話」を通じて「法」を広めてきました。仏教内部での対決も他の宗教との対決も、つねに「対話」による「法論」によって正邪――仏教の本義に適うか否か――を決しようとしてきたのです。そして、「法論」に敗れた方が、みずからの主張を捨てて、勝った方の弟子となることが求められてきました。しかし、現実には、敗れた側が、怨念をいだいたり、策謀をめぐらすこともありました。
 仏教の歴史を見ると不思議なことが分かります。“釈尊の教義”と照らしあわせると、教義の面での改ざんが多く、釈尊の精神から外れ「異端」的に見える人々の方が権力に結びつき、「正統」と思われる人々を弾圧したという例が多いのです。こういうところに、仏教の教義そのものが広く民衆側に開かれたものであることが表れているように思われます。
 博士は「異端のないことが改革の機会を失うのではないか」との疑問を提示されていますが、これまで述べてきたように、仏教の改革は、つねに「対話」(法論)を通じて行われてきております。
 「対話」には、“開かれた心”による相互の交流があり、「法論」に勝った側も、相手の主張に耳をかたむけ、自己反省を行い、とり入れるものはとり入れ、仏教の本義にあわせて判断しております。このようにして仏教の改革は、「法論」を通じて行われてきた、と言えましょう。

1
12