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日蓮大聖人・池田大作

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ボゴミール運動の意義  

「美しき獅子の魂」アクシニア・D・ジュロヴァ(池田大作全集第109巻)

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14  ジュロヴァ  先生は、ソフィア大学での講演の中で、私たち皆がよく知っているフリスト・ボテフの詩「わが祈り」を引用されました。
  「おお わたしの神よ 正しき神よ!
   それは 天の上に在す神ではなく
   わたしの中に在す神なのです
   わたしの心と魂の中の神なのです」
 (僘フリスト・ボテフ詩集兊真木三三子訳、恒文社)
 ボテフの場合もトルストイの場合も、神は「力の魔術からの解放」を助けるために呼ばれています。
 ところで、今日のもっとも緊急の課題は、人々の人間的なふれあい、失われてしまった人間愛、および道徳の問題でしょう。哲学への関心の高まりは、道徳的な問題が存在することの証拠であります。過去百五十年間に見られた科学技術的なユートピアは、しだいに道徳的なユートピアにとってかわられつつあります。
 真理や自由、愛といったものが認識論的あるいは道徳的に、どのように考えられるのかという問題についての関心が高まっています。また、ロシアのトルストイやドストエフスキーの道徳哲学への関心も高まっています。
 両者によれば、民衆という“道徳的絶対者”の再確認や、同胞に対する人間の愛および人間的な思いやりは、すべてキリスト教がもたらしたものです。
 たとえば、ドストエフスキーが絶対者と考えるものは、ヘーゲルの場合のように論理に属するものではなく、倫理に属するものであり、それらは本来、道徳的なものであり、人間相互の愛の基盤として作用するものです。
 その“絶対者”とは、ドストエフスキーによれば、「馬上の世界精神」――ヘーゲルによればナポレオン――ではなく、個々の道徳的な問題のまさに中心に立つキリストであり、キリストの使命は、善悪に中立的な「世界精神」とは異なり、「善の使命」と同等視されるのです。
 こうした「善の使命」を果たすことができるのは、ロシアの人々だけであり、ヨーロッパはそれを必要としませんでした。これが、有名な『大審問官』の場面の意味であり、そこではキリストは、宗教裁判長に接吻をして歩み去るのです。
 道徳はすべてを包含するものであり部分的なものではあり得ません。これが、この二人の偉大なロシアの作家――トルストイとドストエフスキー――の接点でした。その目標を達成するために彼らが提示した道は、各々、異なってはいました。つまり、トルストイは、一人の人間が民衆から離れた時には、その生活は無意味であることに気づくことによって、また、ドストエフスキーは、人間を罪と罰の道へと押し出す“絶望的なニヒリズム”によって、それが達成されるとしたのです。
15  池田 もちろん、その意味はニヒリズムに堕するのではなく、ニヒリズムを生きぬく、耐えぬくことによってですね。
 ジュロヴァ そうです。民衆が労働によって持ってきた道徳への回帰は、悲哀およびニヒリズムと戦う道でした。トルストイは、道徳的、倫理的態度をとりながら、神が人間の子であることを深く確信し、福音を神秘的にとらえることなく素朴に受け入れました。彼は、人間の虚飾という虚偽の背後に、真理と善を発見しようと試みたのです。
 実際、トルストイの道徳哲学は、ボゴミール派との接点を持っていたのです。しかし、ボゴミール派の社会的理念の方がいっそうはっきりしていました。ボゴミール派は、当時の社会構造を否定して、神と人間の仲介者としての教会制度を否定しました。すなわち、彼らは、中世的な「神―人」関係の考え方を修正し、画一的な善悪のカテゴリーに疑問を提示したのです。
 池田 ボゴミール運動を、その視点や教義、倫理といった点で評価するとすれば、次のことが強調されるべきでしょう。それは、ボゴミール派は、ボゴミール派が修正したもとのキリスト教や、ユダヤ教やイスラム教といった他の一神教と比較してみると、よりいっそう道徳的な純粋性や、根本的な源泉――「神」――を志向していたということです。ボゴミール派は、精神的なものを物質的なものの上にすえたのです。

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