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日蓮大聖人・池田大作

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東方正教会の人間観  

「美しき獅子の魂」アクシニア・D・ジュロヴァ(池田大作全集第109巻)

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13  池田 マックス・ウェーバーは、資本主義の初期の段階では、プロテスタント倫理が勤労精神の形成に大きく寄与した、と述べていますね。
 ジュロヴァ 宗教改革は、封建主義から資本主義への移行期に始まりました。それはヨーロッパにおける市民革命の第一段階でした。ルターは、「天職(ベルーフ)」の理念を復活させ、カトリック的な世俗的領域と霊的領域への世界の分割を否定しました。
 さらにカルヴァンは、人間は、地上での生涯の間に天職を見事にまっとうするか否かによって、みずからの場所――神に選ばれた人たちの間にか、そうでない人たちの間にか――を見いだすことができると主張しました。言いかえれば、世俗の活動が「聖なるもの」とされたのですが、この点は現代の西欧人の行動のルーツを理解するために非常に重要です。
 このように宗教改革は、「原罪」という神話を修正して、罪深い人間を無罪放免し、原罪のかわりに人間の知性と理性を置きました。こうして、数世紀にわたり行われてきた道徳的抑制が失われていったのです。そして、次に、無神論の段階に入るのです。
 フランス啓蒙主義は、大衆を導くことのできる普遍的な精神的選択肢を提示しませんでした。たとえば、ヴォルテールの理神論を考えてみましょう。それはカトリシズムの発展でしょうか、あるいは無神論でしょうか。ヴォルテールによれば、「神」とは、自然と切り離せない特別の実体ではなく、自然自体にそなわった行動原理です。「神」を自然と同一視することは、神と人間の間の距離を除去することを意味してはいないでしょうか。
 ヴォルテールは、具体的な姿の「神」は存在しないけれども、神は罰することができるとの考えを、人々から奪うべきではないと書いています。しかし、罰する権利が残るならば、罰する者と罰せられる者との間が変わるはずがありません。
 ここから、人間は信仰なしに生きられるだろうか、という主要な問いが生まれてきました。これは、ドストエフスキーの問いでもありました。
14  池田 ドストエフスキーは、ある書簡でこう述べています。「もしだれかがわたしに向かって、キリストは真理の外にあることを証明し、また実際に真理がキリストの外にあったとしても、わたしはむしろ真理よりもキリストとともにあることを望むでしょう」(「書簡」、『ドストエーフスキイ全集』16〈米川正夫訳〉河出書房新社)
 ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』の中の有名な登場人物、アリョーシャは、現代人から言うと非合理なほど、ゾシマを信じていました。ドストエフスキーは安易に奇跡を信じ、その功徳を賛嘆したのではありません。確かに、ゾシマは数々の奇跡を起こすのですが、アリョーシャはいわば奇跡のゆえにゾシマを信じたのではなく、ゾシマへの深い傾倒のゆえに、奇跡までも信じてしまったのです。
 ドストエフスキーは、その慧眼で、「信じる心」が疲弊し枯渇してしまう時代の到来を予見していたのですね。
 ジュロヴァ 近代になって、教会制度とキリスト教信仰が区別されました。ロマン主義者たちは、「神」への信仰を「詩」で表すことによって、信仰を教会から分離しようとしました。しかし、制度と信仰の対立は、二十世紀の到来とともに一神教の基盤の喪失をも促進したのです。
 宗教を、現実に苦悩をかかえる人々から遊離させ、権威主義にしてしまった理由を理解するには、教会制度の本質と、教会が人間と神の間のつながりを打ち立てる仕組みへの検討が必要です。また、宗教がいかに人間を変革させ得るのかを問い、善悪の本質を見極めることも必要なのです。
 池田 仏教においても、歴史のなかで権威主義に堕落していった場合が、数多く見受けられます。
 ジュロヴァ こうした問いに答えることは、必然的に、人間自身の理解をもたらします。人間は、すべての存在のなかでもっとも重要で複雑なものです。人間こそ、科学技術が精緻に発達した現代においてさえも、おそらく、もっとも探究されていない領域なのです。

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