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日蓮大聖人・池田大作

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東と西のキリスト教  

「美しき獅子の魂」アクシニア・D・ジュロヴァ(池田大作全集第109巻)

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8  池田 確かに、多くの人のビザンチン皇帝に対するイメージは、聖堂のごとき王宮のアプシス(祭室)において、民に祝福をあたえる神のイメージです。
 ジュロヴァ 「エティマジア」(見えざる神、またはキリストを示す象徴的図像。王座とその上の紫のマント、またマントの上には聖書が置かれる)において、皇帝のとなりの王座が空いており、一時的に不在の救世主(キリスト)を待っているとされるのは、この理由からです。
 ビザンチウムにおいては、道徳的な立法規制以外に、教会の独立性を勝ち取ろうとするすべての試みは、国家元首に有利に終わりました。総主教ゲルマニクス、ニセフォルス、フォティオス、神秘主義者ニコラウス、ミカエル・キルラルなどの場合のように。
 世俗的支配と聖職者支配のそのような関係は、東方正教会の道徳規準の基本的な原理のいくつかに、ダメージをもたらすことにもなりました。他方、典礼などの外的な側面は強化されたのです。
 こうして、東欧では、教会は国家の利害に従属するものであることが、不本意ながらではありますが合意を見ました。このことが、東方正教会が外的な儀礼や慣例を重視したり、感情的な要素が欠けているように見えたりすることの原因となったのです。これはとくに、ブルガリアの場合に当てはまります。
 キリスト教は、あらゆる階層の人々の道徳規準にはならなかったのです。道徳規準の役割は、とくに、異教徒の信仰が十分に克服されなかったところでは、何世紀にもわたってフォークロア(民族的な伝統を持つ習俗や宗教、芸能など)が果たしてきました。
 将来は、「民俗宗教」という鍵となる問題が、優先的に研究されるべきでしょう。「民俗宗教」は、わが国では独特の家父長制的家族共同体に体現され、また、公的な文化とは異なってはいるものの、フォークロアに似ているような、社会意識の宗教的モデルに体現されたのです。
 留意しなくてはならないのは、ビザンチン世界とスラブ世界において、福音や教義が、異教的な神秘主義とかかわりのあるプラトン哲学だけでなく、ホメロス的、およびヘシオドス的な神学理論とも、かなり共存していたことです。
 東欧の歴史において、ビザンチウムは、つねに古代の精神を感じていました。古代の精神は、東方正教会の精神文化、物質文化に、人間と神との間に「断絶」を置かないヒューマニズムをあたえたのです。
 私は、貴国では、人間と神の「断絶」を克服する必要はなかったのではないかと考えています。私の知るかぎり、釈尊は人間でした。また、よりよき生命を擬人化したとされる彼の後継者、弥勒菩薩は、人々に「真の生命の法」をあたえるとされていますね。ここには、宇宙、神、人間の間の不断の結びつきが想定されています。
9  池田 釈尊は、「徳のある人々の香りは、風に逆らっても進んで行く。徳のある人はすべての方向に薫る」(『ブッダの真理のことば 感興のことば』中村元訳、岩波文庫)と語っております。ここに、人間の心、人格性を中心に置く、仏教の卓越性があります。
 日蓮大聖人は、強大な武家権力に堂々と論戦をいどみ、二度も流罪にあっています。流刑の地・佐渡で、次のように述懐しています。「日蓮は・なかねども・なみだひまなし、此のなみだ世間の事には非ず但ひとえに法華経の故なり」と。また、「一切衆生のためには大導師にてあるべし」と。日蓮大聖人もまた、民衆のただ中にあり、人々の苦悩に共鳴し、それを克服する挑戦を通して、人々の境涯を高め、拡大させていったのです。
 内村鑑三は、こう評しています。
 「『仏敵』には極めて假借なかった彼は、貧しきもの悩めるものに接する時、人として最も柔和なる人であった」(前掲『代表的日本人』)
 トルストイが、真のキリスト教的生き方の一つの可能性を、フォークロアの形に見いだしたのも、同じ文脈からと言えるでしょう。また、エマニュエル・レヴィナスの、「神性は隣人を通じて顕現する」(『困難な自由』内田樹訳、国文社)との言葉も、私は同じ趣旨と受け取っております。また、偉大なる詩聖タゴールの次の言葉も、私の心にあざやかな光とともに浮かんできます。
 「神のいますのは、農夫が固い土を耕している場所、道路工夫が石を砕いている場所だ。晴れた日も雨の日も、神は彼らの傍にいて、着物は塵にまみれている」(『タゴール詩集ギーターンジャリ』渡辺照宏訳、岩波文庫)『法華経』においては、宗教的人格の理想のイメージの譬喩として、蓮の花が池の中で、水をはじき泥に染まらず、美しい華を咲かせることが用いられています。
 すなわち、現実や世俗のなかにありつつも、そのただ中で聖なるものを顕現させていくことがめざされているのです。

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